戦国時代

大久保長安 【猿楽師から武田家~徳川家家臣に大出世した武将】

猿楽師から武田家臣へ

大久保長安

※能(翁奉納 春日神社 (篠山市))wikiより

大久保長安(おおくぼながやす)は、猿楽師(現在の能)から武士となり、甲斐の武田、次いで徳川の家臣となった異色の武将です。

徳川幕府の成立後には勘定奉行やなどを歴任しましたが、殊に外様の出で老中に就任した唯一の人物でした。

長安は、天文14年(1545年)に猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれたとされています。父・信安は大蔵流の猿楽を創始した人物で、猿楽師として武田信玄に仕えるようになったと言われています。

程なく長安は、信玄から武士として家臣に取り立てられ、家老・土屋昌続の与力となり、姓を大蔵から土屋に改めたとされています。

長安は以後、武田の領国内において黒川金山を始めとする鉱山開発や、税務などに才覚を発揮したとされています。信玄の没後には、その子・勝頼に仕えたとされていますが、武田が織田に滅ぼされた後には、徳川に仕えることになりました。

徳川への仕官

※『勝頼於天目山遂討死図』

長安が徳川家康に仕えるきっかけとなったのが、家康の甲州征伐の際の館を用意したことだと伝わっています。

長安が建設した館を見た家康が、その作事の才を見抜き仕官を受け入れたとされています。また、巷説では家康の家臣・成瀬正一を通じ、自らは信玄に認め
られた秀でた官吏であり、鉱山開発山に関する高い技術を持つと巧みに喧伝して、言葉巧みに家康に取り入ったとも言われています。

ともあれ長安は、徳川の重臣・大久保忠隣の与力に取り立てられ、大久保の名字を賜るほどにその才を認められました。

天正10年6月に本能寺の変によって織田信長が死去、甲斐を家康が領することなりました。

その当時、政治的な混乱状態にあった甲斐において、家康から本多正信伊奈忠次が内政の再建を命じられました。このとき実際の再建を執り行ったのが長安であるとされています。

長安は優れた行政手腕を発揮し、わずか数年で甲斐の内政を復興・再建したと伝えられています。

異例の大出世

天正18年(1590年)に秀吉が北条氏を滅ぼした小田原征伐によって、家康は関東に移封となりしたが、この時に長安は奉行に任じられました。

翌、天正19年(1591年)長安は家康から武蔵国八王子に8,000石の知行を与えられ、加えて家康が領す関東250万石のうち、100万石の直轄領を管理する関東代官頭の一人に抜擢され、その管理の一切を取り仕切ったと伝えられています。

長安は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍の支援役を務めました。戦後に豊臣の保有していた佐渡金山や生野銀山などを徳川が直轄領にすると、長安は大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官を次々と兼務して任命されました。
家康が長安の才を高く評価していたことが窺える人事といえます。

慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任命された際には、長安も従五位下石見守に叙任を受け、加えて家康の六男・松平忠輝附家老も務めるとこになりました。更には佐渡奉行、所務奉行(後の勘定奉行)、同時に年寄(後の老中)にも任じられ、異例の出世を遂げました。

慶長11年(1606年)には伊豆奉行にも任じられ、長安は徳川の持つ全国の鉱山の統轄や、関東における交通整備などの一切担う重臣として、幕府内において絶大な権勢を誇る地位を築きました。
またこの間に、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫との婚儀を取り持ったことから、伊達家とも密な関係を構築したものと言われています。

死後に打ち首とされた 大久保長安

しかし長安も、晩年には全国の鉱山の採掘量が低下したことで家康の信頼を失い、美濃代官を始め代官職を罷免されていきました。

そして慶長18年(1613年)4月、享年69歳で病死しました。

※本多正信

この直後、長年幕府内で長安と対立していた本多正信・正純親子が、慶長19年(1613年)5月に生前の長安が不正な蓄財していたことを告発する事態が発生しました。

この嫌疑を以て家康は長安の7人の男子を全員処刑し、一族・縁戚関係者にも刑が課される一大事件に発展しました。

不正蓄財の是非も詳しくはわかっていませんが、権勢を極めた重臣であっても不正に対しては容赦をしない幕府の姿勢を示した事件でした。
尚、既に死亡していた長安の遺体までもが掘り起こされて、駿府城近くの川原において、改めて斬首・晒し首とされたと言います。

これら極めて厳格な刑の執行を受けて、ここまでの仕打ちを受けた長安に対する様々な巷説が語られる事となりました。

曰く、長安は家康ではなく、伊達政宗を天下人にと考え、政宗の幕府転覆計画に同意してこれを支持したとする説、後見役を務めた松平忠輝を将軍に就けようとしたとする説、屋敷の床下からスペインや明と共謀していた書状が発見され、それによれば明による日本への侵攻を画策してい説など、様々な伝説が今日まで伝えられています。

 

アバター

swm459

投稿者の記事一覧

学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 藤堂高虎はなぜ7回も主君を変えたのか調べてみた
  2. 戦国時代の女性の生活について調べてみた
  3. 内藤昌豊 〜数々の武功も当然のことと評された武田四名臣の一人
  4. 【人魚を捕獲した!】 おもしろネタ満載だった江戸のメディア 「瓦…
  5. 上杉鷹山について調べてみた【米沢の名君】
  6. 江戸の英雄、庶民の憧れ!江戸の火消しとは 【江戸に火事がめちゃく…
  7. 高山右近【信仰に殉じマニラに追放されたキリシタン大名】
  8. 大塩平八郎の乱 「庶民の為に反乱を起こした幕府の陽明学者」

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

平安貴族の出仕先「二官八省」について解説 【光る君へ】

大河ドラマ「光る君へ」で注目されている平安時代。平安貴族は、荘園からの収入以外にも宮中などへ…

高坂昌信と甲陽軍鑑 【武田氏の歴史を今に伝えた武将】

武田信玄、武田勝頼父子に仕えた武田家の譜代家老、春日虎綱(かすがとらつな)は、高坂昌信(こうさかまさ…

【神社に祀られる神様を知る】必勝祈願・芸能上達なら「八幡さま(はちまんさま)」にお参りを

祭神の八幡大神は第15代の応神天皇「八幡さま」をお祀りする神社は、全国で約46,000社…

【Tポイント・ponta・楽天】ポイントカードについて調べてみた

皆さんのお財布の中にも一枚は入っているはずのポイントカード。その中でも、提携企業が多くてメジャー…

滝川一益について調べてみた【悲運の織田家武将】

関東方面軍を率いた 滝川一益滝川一益(たきがわかずます)は織田信長が本能寺の変で討たれるまで…

アーカイブ

PAGE TOP