朝倉義景は朝倉家第11代目当主であり、越前国の大名です。
彼は一時は織田信長を討ち取る一歩手前まで追い詰めましたが、最終的に信長に敗れ自害しました。
優柔不断な性格から上洛のチャンスを逃す
朝倉家が治めていた越前国は天皇が住む京都に程よく近く、さらに居城一乗谷館は北の京として繁栄していました。
そして、1565年に将軍足利義輝が暗殺されるという永禄の変が起こると、興福寺にいた弟の足利義昭は朝倉家を頼み越前国に逃げ込みます。大名からすれば義昭を擁立して上洛すれば、その時点で将軍の後見人としての立場は安泰なものになります。
実際に織田信長はその後、義昭を将軍にし、京都を実質的に支配下に置きました。まさしく義昭が朝倉家を頼りしたことは天下統一のチャンス。しかし、義景は義昭を高待遇で迎えはしたものの、義昭を将軍にするために上洛することはありませんでした。
実はこの直前に義景の息子である阿君丸が急死しており、悲しみにくれていた真っ最中でした。さらに義景としたら、もし京都に向かえば加賀国の一向一揆が一気に攻めてくる危険もありました。
そのため、義景は義昭擁立にあまり関心を持つことはなく、業を煮やした義昭は朝倉家を見限りこの頃美濃を制圧し急成長していた織田家を頼ることになります。
もし、この時義景が京都に上洛し、義昭を将軍に仕立て上げたなら歴史は大きく変わったかもしれません。
金ヶ崎の戦いと姉川の戦い
義昭が越前国を去った翌年の1568年、上洛し、実質的な将軍の後見人となっていた織田信長は義景に対し従属するように命令します。
織田家としたら大国であった越前国は魅力的な土地でもあり、さらに岐阜から京都までのルートを安全にするためだったそうですが、義景はこれを拒否。織田家と朝倉家の関係は一気に悪化してしまいます。そして1570年、信長は3万の大軍で越前に出兵。金ヶ崎城を落とし一乗谷に一気に攻め込みます。しかし、この場面で同盟関係だった浅井家当主である浅井長政が裏切り、信長を攻撃。いわゆる金ヶ崎退き口で織田軍を追撃します。
織田軍は被害を受けますが、命からがら京都に逃げ延びた信長は再び軍を整え、浅井の本拠地小谷城近くの姉川で朝倉軍と対峙。姉川の戦いが勃発します。
しかしこの場面においても義景は出陣はせず、朝倉軍も8千と非常に小規模なものでした。結局姉川の戦いにおいて朝倉軍・浅井軍は敗北。非常に苦しい立場に置かれることになってしまいました。
織田包囲網における 朝倉義景
義景が出陣しなかった一つの理由は、なんといっても加賀の一向一揆を恐れていたことがまず第一に挙げられます。
朝倉家と一向一揆は先代の頃からの敵でしたが、この関係は1571年に一向一揆のトップであった本願寺顕如が朝倉家と和睦してから一気に変わります。加賀の一向一揆を心配せずとも良くなり、朝倉家は浅井家と協力して織田家を攻撃しますが、義景自身が出陣することはありませんでした。
1572年に武田信玄が満を持して西上作戦を開始すると、信玄から近江を攻めて織田家を脅かしてくれという手紙が届きます。しかし、義景は大雪を理由に越前に帰国。信長を倒す最高のチャンスの時にまさかの帰国する事態に信玄は大激怒して義景に送った手紙を残しています。
最高のチャンスを逃した信長包囲網はその直後に起こる信玄の死によって脆くも瓦解することになってしまいます。
刀根坂の戦い 朝倉家の滅亡
1573年、信玄の死を聞いた信長は3万の軍勢で北近江に侵攻。浅井家はピンチに追い込まれてしまいました。
義景とすれば浅井家の次は朝倉と思っていたので軍を率いて救援に向かうことになるのですが、これまでのミスがたたってしまい、家臣からの信頼はもはやないも同然となっていました。特に朝倉家の筆頭家老であった朝倉景鏡(あさくらかげあきら)の出陣拒否は朝倉軍に大打撃を与え、義景は重臣の軍勢除く2万の軍勢で救援に向かいます。
朝倉軍は浅井軍との連絡ルートの最重要拠点である大嶽砦の救援に向かいますがが織田軍の奇襲によって失敗。朝倉軍と浅井軍の連絡ルートが遮断されることになってしまいます。こうなってももはやどうすることもできない。義景は浅井家を見捨てざるを得ないなり越前に撤退を始めました。
しかし、義景は最後のミスを犯してしまいます。義景は信長は浅井を滅ぼしてから越前に攻めてくるだろうと予測していました。しかし信長は義景の撤退を予測しており、浅井を滅ぼす前に朝倉討伐に向かったのです。その結果朝倉軍は撤退途中の刀根坂で追いつかれてしまい、2万の軍勢は壊滅的な被害を受けてしまいました。
義景は命からがら一乗谷に帰還しましたが、その時残ったのはわずか4騎だったといいます。義景は一乗谷を捨て、筆頭家老の景鏡がいる越前大野に逃れましたがこの場面で景鏡は織田に寝返り。宿泊した寺を襲撃され自害しました。享年41才でした。
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