信玄の政治
武田晴信(信玄)は、わずか21歳で武田宗家の当主となった。彼はまず父・信虎時代の統治で疲弊していた領民のために動き出した。
「信玄」は出家後の法名であるが、ここでは一般的に知られている「信玄」と記させていただく。
天文16年(1547年)甲斐の国の憲法ともいえる「甲州法度之次第」26か条を制定する。
この法度は後に26か条から57か条に増えているが、決して領主を優遇するものではなく、不当な課役や年貢の増微などがあれば領主を処罰するものであった。
一方、正当な理由がないのに課役や年貢の納入を拒否した農民たちも処罰した。
誰であろうと公平に裁くというのが、この法度の理念であった。
なんと「例え晴信(信玄)でも例外ではない」という文言まで、法度の最後に示されているのである。
こんな法度は今まで全国どこにもなかったという。
信玄は自分自身を厳しく律すると共に、目安箱を設置して領民との話し合いの機会を開いていた。
このような事を行った戦国大名は、おそらく信玄だけであったとされている。
初めての敗北
信玄は父・信虎の信濃攻めを引き継いだ。
それは領地を拡げて国を豊かにするためであった。
当時の信濃国には全体を治める人物はおらず、守護の小笠原氏を始め、国衆たちがそれぞれの地域を支配していた。
信玄率いる武田軍は、上原城の諏訪氏を滅ぼしたのを皮切りに次々と信濃の国衆たちを打ち破っていった。
まさに破竹の勢いの信玄だったが、その前に立ちふさがったのが葛尾城主・村上義清であった。
天文17年(1548年)2月14日、信玄軍は信濃国上田原で村上軍と激突した。
武田軍8,000余に対し、村上軍は5,000余、兵力では武田軍が優位の中、先陣を切った家老・板垣信方の部隊が村上軍を撃破し敵陣近くまで進軍する。
しかし、勝利を確信した板垣信方は、敵前で首実検を始めてしまった。
この行動は完全に板垣信方の驕りであり、その油断をついて村上軍が反撃を開始することになる。
不意をつかれた板垣信方は討死し、信方の部隊は敗れてしまう。
精強を誇った先陣の板垣隊が負けたことで、後続の武田軍は動揺して突き崩されてしまい、とうとう信玄がいる本陣を攻められてしまう。
応戦した信玄は自ら2か所の傷を負い、その際に信玄を守った家老・甘利虎泰も討死にしてしまった、
これは信玄の初めての敗北であった。
信玄は2か所の傷を治すために温泉で30日間の湯治をしたという。
しかし、信玄は敗れても戦場に留まり続けた。
重臣を数多く失い敗北した信玄が撤退しなかった理由として「負けを認めたくなかった」ことと「村上軍よりも先に撤退をすると追撃を受ける懸念があった」ということが考えられる。
家臣団の立て直し
重臣たちを多数失い初めての敗北を味わった信玄は、再起を図るために家臣団の立て直しを行った。
まずは人材の発掘である。埋もれている逸材を見つけ、見込みがあると思った若者を子飼いの家臣として小姓や近習といった側近にして、様々なことを教えていった。
その中の一人が「高坂弾正」である。
地方の農民の子であった弾正を家臣に取り立て、戦での伝令役を務めさせた。
弾正は次第に頭角を現し、後に「武田四天王」と呼ばれるほどの重臣になった。
もう一人が「山本勘助」である。勘助は諸国を巡る浪人だったが、兵法と築城術に長けていた。
隻眼な上に片足が不自由で指も何本も無かったが、剣聖・塚原卜伝から兵法や剣術を教わった弟子の一人だったとされている。
その話を聞いた当時の家老・板垣信方が信玄に推挙したという。
信玄は勘助の器量を見抜いて足軽大将に取り立てた。後に勘助は「武田二十四将」の一人となり、「武田の五名臣」の一人にも数えられ、信玄の軍師や知恵袋として懐刀となっていった。
更に信玄は軍政を整え、自らのもとに軍を指揮する寄親を置き、それぞれの寄親が寄子と呼ばれる兵士たちを統率する仕組みを作り上げた。
そして戦に勝っても自分を誇らずに家臣たちを褒め称え、その日のうちに刀や絹の物などの褒美をやることで、家臣たちのやる気や一体感を引き出していった。
人を育てること、使うことに長けていた信玄は、家臣をとても大切にする人でもあった。
戦が続く日々の中でも、戦死した家臣の供養を日課にしていたという。
また、頼りにしている家臣たちが戦で命を落とさないように、一人につき百篇もの経を唱えていたという。
信濃への再侵攻 2度目の大敗北
天文19年(1550年)信玄は再び信濃攻めを開始する。
信濃国の守護・小笠原氏を「塩尻の戦い」で破ると北へ侵攻し、大敗を喫した村上義清と砥石城で再び対峙した。
この戦いは武田軍7,000に対し、村上軍はたったの500だった。しかし砥石城を落とすことは容易なことではなかった。
実は、砥石城は信濃国の中でも一番と言われるほど堅固な城であった。
信玄の力攻めも効かず、兵糧攻めをしようとしても砥石城にはかなりの備蓄があり兵糧攻めも効果がなかった。
一説では、山の上にある砥石城に登ってくる武田軍に対し、村上軍は落石攻撃や熱湯攻撃で応戦したと言われている。
武田軍はまたしても大苦戦し、信玄はやむなく撤退を決断する。
撤退を開始すると村上軍から追撃を受け、なんと殿軍の1,000余りが命を落としたという。
これが世に言う「砥石崩れ」、信玄二度目の大敗北である。
だがその後、武田二十四将の一人・真田幸綱が、村上方の国衆を調略して次々と武田軍に寝返りをさせていった。
そしてとうとう砥石城内に内通者を入れて、難攻不落の砥石城を落としたのである。
戦況は次第に武田軍が優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は居城・葛尾城を放棄して越後国へと落ち延びた。
こうして信玄は念願の信濃国の大半を支配下に置くことになったのである。
この時、信玄31歳だった。
おわりに
砥石城が落城して村上義清が落ち延びた先は、なんと越後国主の長尾景虎(上杉謙信)のもとであった。
しかも信玄に追い詰められた村上義清が生み出した「兵種別編隊」が上杉軍でも基本隊形となり、より精強な軍となってしまうのである。
後に信玄の最大のライバルとなる上杉謙信との宿命は、これが始まりだったのかも知れない。
武田信玄の葛藤と苦悩は、これからも続くのであった。
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