長篠の戦いとは
長篠の戦いとは、戦国時代の天正3年(1575年)5月21日、三河国長篠城を巡って3万8,000の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5,000の武田勝頼率いる武田軍が戦った合戦である。
戦国最強の武田騎馬軍団と対抗するために、織田・徳川連合軍は柵を築き鉄砲隊を三段構えにして応戦し、戦国最強と謳われた武田軍から1万人以上(その数は諸説あり)の死傷者を出し織田・徳川連合軍が圧勝し、戦国時代の戦(いくさ)の常識を変えた一つの転機とされた戦いである。
今回は、現代科学で「長篠の戦い」を検証し、織田・徳川軍と武田軍の戦い方などについて歴史の通説とその実像について、前編と後編にわたって解説する。
織田軍の鉄砲隊
織田軍3万と徳川軍8,000は長篠城手前の設楽原に着陣、川を挟んで武田軍と対峙し、土塁に馬防柵を設けて鉄砲隊を主力として武田軍の騎馬隊を迎え撃つ戦術を取ったとされている。
今までの通説では、織田軍の鉄砲隊は三列に並び、一列目が撃つと後ろに下がって二列目が発砲、二列目が撃った後に後ろに下がって三列目が撃ったとされ、後ろに下がった時に弾を込めて、その繰り返しを行う「三段撃ち」だとされていた。
しかし、この三段撃ちは実戦向きではなかったというのだ。
長篠の戦いは、両軍の中央を流れる小川の連吾川を隔てて横約2kmの範囲で布陣していた。
織田・徳川軍の鉄砲隊は、連吾川を堀に見立て更に三重の土塁に馬防柵を設けて布陣し、攻め寄せる武田軍を鉄砲隊で待ち受けた。
当時の鉄砲は、火縄銃の射程距離は約100m、だが100m先では命中率はかなり低かった。
火縄銃を再現し、銃の名手に試し撃ちして貰ったところ、射程距離50mでは目標の的への命中率は80~90%前後だが、100mでは10%前後という数字が出た。
この検証の結果では、正確に相手を狙う距離は50m位であることが想像出来る。
つまり、織田軍が鉄砲を撃ち始める距離は約50mだと考えられる。
対する武田軍の騎馬隊は、一体どの位の時間と距離で織田軍まで到達出来たのだろうか?
当時の馬に騎乗してその時間を測ってみると、武田の騎馬隊はおよそ4秒で50mに到達した。
火縄銃は一旦発砲すると次の弾込めまでの時間は、急いでも約30秒はかかる。
今までの通説通りなら、次の弾を込めている間に完全に武田の騎馬隊が目の前に現れてしまうことになる。
こうした火縄銃の弱点のために用いられたとされるのが、織田軍の「三段撃ち」だ。
当時としては異例の3,000丁の鉄砲を揃え、1,000丁ずつを立ち替わりに「放て!」の合図で撃ったと記述されている。
しかしこの三段撃ちを現代で実際に行ってみると、一列目の発砲から二列目の発砲までの時間は約28秒、三列目の発砲までの時間は約22秒がかかったのだ。
例え早く玉込めの準備が出来たとしても、列の全員が揃うまでに時間がかかってしまうのである。
では、織田軍は実際にはどのように射撃していたのであろうか?
考えられるのは、空いたところに兵がどんどん入って射撃を行う方法である。
まず、各兵が目標を定めて自由に発砲、準備が出来た兵が空いたところに入って撃つという「先着順自由連射」という方法を取ったと想像が出来る。
この方法で検証してみると時間待ちのロスが少なく、間隔は早くて約2~3秒でどんどんと発砲することが出来た。
この方法であれば、武田軍の騎馬隊に対応することが十分可能となる。
更にこの撃ち方は、外から見れば立ち替わり撃っているように見え、史料にある三段撃ちのようにも見えるである。
信長は、長篠の戦いに参陣していない細川藤孝ら織田軍の武将たちに鉄砲隊だけ送ってくれという手紙を出している。
実際に「先着順自由連射」を行っていたかどうかは確認のしようもないが、理論的には騎馬隊に対応可能であり、信長が鉄砲隊を大量に集めて戦術の準備をしていたのは事実である。
武田軍の戦い方
戦国最強と謳われた武田の騎馬隊だが、長篠の戦いでは武田軍も通説とは異なる戦い方をしたとされている。
武田軍を率いた武田勝頼は、信玄亡き後に領地を着実に拡大し、信玄時代よりも大きな領地を有していた。
これまで長篠の戦いの通説では、武田の騎馬隊がやみくもに織田軍の鉄砲隊に突撃し、射撃されて敗北したとされていたが、近年の研究ではその通説が覆っている。
(※これはTVドラマや映画などの影響も多大に関係していると思われる)
武田軍の部隊編成が示された史料によると、先頭にいるのは騎馬隊ではなく鉄砲隊であり、武田軍の主力と思われていた騎馬隊や槍隊は、鉄砲隊の後ろに配置されていたのだ。
つまり武田軍も遠方攻撃が出来る鉄砲隊、次に槍隊という当時の最先端の戦術を用いていたのである。
長篠の戦いは、まず両軍による鉄砲隊の射撃戦から始まった。
武田軍は鉄砲を軽視していたと言われていたが、実は東日本の戦国大名の中でも早い段階から大量の鉄砲を集め、鉄砲隊を編成していたのだ。
1万5,000の武田軍の編成の中で約10%の1,500人は鉄砲隊と弓隊の遠距離部隊が編成され、少なくても1,000丁の鉄砲を長篠の戦いでは準備していたと思われる。
ただし、武田軍の鉄砲隊には致命的な「欠点・弱点」があったのだ。
それは弾丸である。
長篠の戦いが行われた古戦場から、数多くの銅の弾丸が発見されている。
その銅の弾丸を現代の科学で成分分析してみると、当時日本で流通していた「永楽通宝」という明の銅銭が使われていた。
通常、火縄銃の弾丸の原料は鉛を使うのが一般的だったが、それは鉛が溶けやすく加工しやすかったからである。
一方、銅は高温でなければ中々溶けずに加工が困難で、鉄砲の弾丸には本来適してはいなかったのだ。
なぜ武田軍は銅銭を鉄砲の弾にしたのか?
それは原料となる鉛が手に入りづらいという、武田家が抱える深刻な悩みがあったからだ。
当時、日本では鉛が十分に採取することが出来ず、ほとんどの戦国大名は鉛を外国との南蛮貿易によって入手していた。
しかし、南蛮貿易の中心地である長崎は武田領から遠く離れ、もう一つの貿易の中心地・堺は信長の支配下であり、武田が鉛を調達することは困難を極めた。
海に面していない武田の領地では貿易が出来る港を持つことが出来なかった。そこで仕方なく鉛ではなく銅を弾丸に用いたのだ。
堺や畿内、尾張の港を押さえている信長は圧倒的に有利であり、山岳地帯の多い武田は銅銭を加工して弾丸にするしかなかった。
現に長篠の戦いの古戦場から見つかった武田軍が使用したと思われる銅の弾丸は、鉛の弾丸に比べて丸みが甘く、しかもその表面にはぶつぶつとした小さな穴のような物が幾つもあった。
このような銅の弾丸では、射程距離や命中率も織田軍の弾丸にはとうてい及ばなかったのである。
このように、長篠の戦いは通説とは異なる新事実が幾つか発見されている。
後編では、長篠の戦いのシミュレーション、長篠の戦いが起こった理由について解説する。
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