川中島の戦いの真実
5回に渡って行われた「川中島の戦い」
この合戦の後に、信玄と謙信はこんな言葉を残している。
信玄は「上杉敗れたり、川中島は我が手中にあり」と言い、一方謙信は「ご苦労のおかげで武田軍を多数討ち取り、年来の本望を達した」と言い、互いに自軍の勝利を主張している。
実はどちらが勝ったのかは、未だにはっきりとはしてはいないのである。
善光寺平と直江津港
川中島は、善光寺平という非常に肥沃な土地であった。
実は「川中島の戦い」の最大の争点は、信玄も謙信も米どころの善光寺平の取得だったのではないかという説がある。
善光寺平は現在の長野盆地で信濃国随一の平野であり、10万石の米が取れたという。
信玄は善光寺平だけではなく、他にも狙っていたものがあった。それは謙信の経済力の要である直江津港であった。
海に面しておらず港を持っていない信玄は、川中島に進出し、更に直江津港が欲しかったのである。
そのため5回にも渡って謙信に戦いを挑んで来たという。直江津港は謙信の居城・春日山城からわずか5kmほどの位置にあった。
謙信は直江津港を守るために春日山城を離れられなかったとも言われている。
直江津港は謙信の時代に大都市の港として栄え、全国の港と交易が出来る重要な流通の拠点であった。
青苧の関税などで年間50億円以上もの利益が見込めた港で、甲斐には無かった海も手に入れることが出来る。
信玄が「川中島の戦い」を行なった大きな要因の一つだったと考えられている。
善光寺
実は信玄には、もう一つ信濃国侵攻の理由があった。
それは長野市にある善光寺である。現在でも全国から参拝客が訪れて賑わいを見せる有名な寺である。
善光寺は今から約1,400年前に創建され、その周囲は宿場町や交易の場所として人々が集まり繁栄していた場所であった。
なんと信玄は「川中島の戦い」の最中に、大金を投じて善光寺を自分の領国の甲斐に移動させたのである。
現在の甲府市にある甲斐善光寺には、信濃から運んだ引き摺りの鐘などがある。
他には日本最初の「源頼朝の木像」を、信濃の善光寺から甲斐へ移している。
頼朝は善光寺を熱心に信仰しており、この木像は近年、源頼朝の顔に一番似ているとして歴史の教科書にも掲載されている。
では何故信玄はそこまでして善光寺を移したかったのか?
善光寺には昔から参拝客が全国各地から集まって来ていた。
それが甲斐にあれば全国から参拝客が甲斐に訪れることになる。当然信濃国にいた善光寺の周囲の人たちも甲斐に移ることになる。
善光寺の門前町として全国から人が集まれば、甲斐は大きな経済発展をする。それで信玄は多額な費用をかけてでも善光寺を甲斐へ移したかったのである。
実は謙信も、越後に居ながら善光寺に目を付けていたと言われている。
つまり「川中島の戦い」は、10万石の善光寺平という土地、善光寺という全国的に有名な寺、謙信の持つ直江津港を巡って争われた戦いであったとも言えるのだ。
おわりに
「川中島の戦い」は、信玄に攻められた北信濃の豪族や武将たちが謙信のもとに逃げて、「義の男」謙信が信玄と戦ったというのが通説であった。
しかし経済面から見ると通説は覆り、信玄と謙信は共に「善光寺平」と「善光寺」、それに加え信玄は「直江津港」が目的だったという可能性も大きいのである。
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