塵芥集の制定
今回は前編に引き続き、後編である。
巨大山城・桑折西山城(こおりにしやまじょう)を堅固なものとした伊達稙宗は、天文2年(1533年)に「蔵方之掟(くらかたのおきて)」という質屋関係の13条の制定を行い、天文5年(1536年)には171条にも及ぶ分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」を制定した。
これはあらゆる方面を網羅し、刑法と民法の区別はないが、訴訟の仕方などの原告と被告の関係がよく整理されていて、領民の保護に格別の注意を払っていたことが伺える。
また、稙宗は神社仏閣と細工人(武具と農機具の職人など)には、土地所有権売買他で優遇し、他領地へ離散させないようにしている。
そして「生口」という特殊な制度があり、伊達家は犯罪の捜査はせず、被害者が自ら捕まえなければならなかったという。
冤罪の場合は50日以内に真犯人を生きたまま連れて来なければならないという、全国に例のない特殊な制度を設けていた。
171条もあったことから分国法の中では当時最大規模であり、地頭の支配権が広く認められていた点も特徴である。
これによって伊達氏の統治機構の拡充を図った稙宗は、同年大崎氏の内乱鎮圧に動き、その代償として次男・義宣を大崎氏に入嗣させた。
この結果、奥州と羽州の両方の探題職は伊達氏の統制下に置かれることとなり、稙宗は奥州と羽州の事実上の支配者になったのである。
天文の乱
稙宗は十四男七女と子供に恵まれていて、その子らを政略結婚で巧みに利用し、北は大崎・葛西、南は会津・仙道、西は越後、東は相馬と広大な領土の領主として君臨した。
その結果、伊達氏の支配は広がって行ったものの、その代償として内部分裂を招いてしまったのである。
稙宗は陸奥国守護としてその責任感から、自国の力(領土や兵)を割いてまで他家に協力をしてしまう寛大な人物だった。
例として、長女が嫁いだ相馬顕胤をとても可愛がっており、伊達氏の領土を割いて与えている。
さらに三男の伊達実元を越後国の守護・上杉定実の元に養子に出す際も、軍事力が必要だとして伊達氏の精鋭百騎をつけて送り出そうとした。
この上杉氏への件は「伊達氏にとって大幅な軍事力低下だ」と譜代の家臣たちが異議を唱えた。
その家臣たちの主張を尊重して立ち上がったのが、なんと稙宗の嫡男・晴宗(はるむね)だった。
当初は話し合いがもたれたが、結局話し合いでは解決せず、嫡男・晴宗が一部の家臣たちと決起したのである。
「嫡男と戦うべきか?」「それとも父子の戦いをやめるべきか?」と稙宗は悩むが、結果的には晴宗と戦う形となってしまった。
息子や娘たちが周辺諸侯に婿・嫁入りしているために、当初は周辺諸侯のほとんどが稙宗を支持していた。
一方で晴宗を支持したのは伊達氏譜代の家臣団、そして主な他家勢力は、晴宗の正室の父・岩城重隆、晴宗の叔父で稙宗の弟・留守景宗、大崎義直、葛西晴胤くらいだった。
勢力・兵力的には晴宗側が圧倒的に不利であったが、晴宗は弟・実元の上杉氏への養子入りを阻止するために実力行使に出たのである。
天文11年(1542年)6月、なんと鷹狩りの帰途にあった父・稙宗を捕えて西山城に幽閉してしまったのである。
これは実元が越後国に向かう直前であり、実元の入嗣は中止された。
しかし幽閉された稙宗は小梁川宗朝に救出され、その後、奥州諸侯を紛合して晴宗と争う姿勢を見せた。
こうして伊達氏だけの内乱ではなく、姻戚関係にある周辺諸侯を交えた奥州全体を巻き込む「天文の乱」へと発展してしまったのである。
当初は兵力に優る稙宗方が優勢で、晴宗方は敗戦続きであった。天文15年(1546年)6月には稙宗が西山城を奪還、晴宗は拠点を北の刈田郡白石城に移す。
この晴宗の北部への移動が北部戦線に影響を及ぼし、柴田郡や伊具郡では晴宗勢力が息を吹き返すようになる。
形勢を決定付けたのは、これまで稙宗と長く同盟関係にあった蘆名盛氏(あしなもりうじ)が、天文16年(1547年)に晴宗側に寝返ってしまったことである。
この寝返りよって戦況が一転し、南部戦線も晴宗方が優勢となっていった。
天文17年(1548年)には形勢はほぼ決まり、芦名盛氏・岩城重隆・懸田俊宗・相馬顕胤・二階堂輝行といった伊達氏と姻戚関係にある面々が仲裁に入り、とうとう室町幕府の将軍・足利義輝の和解勧告を受ける形で、6年間続いた「天分の乱」は終結した。
稙宗は晴宗に降伏する形で和睦し、家督を譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた。
こうして伊達氏は晴宗による新しい領国支配へと舵を切って行くことになったのである。
この「天分の乱」は、晴宗によるクーデターの意味合いが強かった争いだとも言える。
だが6年間も続いた争いにより、伊達氏の支配力は稙宗の時代よりも確実に弱まってしまい、周囲の諸侯たちはそれぞれ力を増して晴宗と対立したという。
稙宗は隠居先の丸森城で永禄8年(1565年)6月19日に死去した。享年78であった。
おわりに
伊達稙宗は、戦国時代の寵児・織田信長よりも30年も前に家臣たちを城や城下に住まわせ、時代の最先端となる巨大山城「桑折西山城」を築いた優れた武将であった。
独眼竜・伊達政宗が生まれるのは、稙宗の死から2年後である。
もし「天分の乱」が起きていなければ、伊達氏は強大な力を持ったまま正宗の時代を迎え、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
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