奴隷貿易と聞くと、かつて西欧諸国によって行われていたアフリカ奴隷貿易の印象が強い。
しかし過去には日本でも奴隷貿易が行われ、外国へ売られていった人々が存在した。
戦乱の世
戦国時代、農村地帯や城下町などで多くの戦闘が繰り広げられていた。この合戦時に、一般兵による略奪行為が横行していた。
略奪行為は金品、食料はもちろん近隣の一般人も誘拐されていた。この行為は「乱妨取り」または「乱取り」といわれた。
これは合戦に参加する一般兵は農民が多く、また食料や装備も自身で調達しなければならないこともあったからである。
さらに乱妨取りは稼ぎでもあり金品や家財を奪った。そして人を誘拐し身代金を要求したり人身売買も行われていたという。
大名達もこれらの行いを兵士の褒美としたり士気を保つために黙認していた。
戦よりも乱妨取りを目的とした者もおり、乱妨取りは戦と切っても切れないものであった。
南蛮貿易
16世紀中期から、ポルトガルやスペインとの交易を主とした南蛮貿易が始まり、鉄砲やキリスト教が日本へ伝わった。特に鉄砲や火薬は武士の戦闘に必要不可欠であり、日本側は銀や刀剣を売り取引した。
しかしそれだけでなく、戦時に捕らえた捕虜をポルトガル人に売るようになった。また捕虜以外にも誘拐されてきた人や貧困から家族に売られた人なども多くいた。中には借金から逃れる為など様々な事情を抱えた人が、自ら身売りすることもあった。
16世紀末には私貿易商人の船も多く日本へ渡航していた。自ら身売りした人がその乗組員としてマカオへ渡り、その後ポルトガル人の要塞などへ売られていったという。
また奴隷貿易は日本やアジアだけで無く、中南米、ヨーロッパと世界的に行われ、ポルトガルによる人身売買が盛んに行われた時代であった。これによりポルトガル人は多額の利益を得ていた。
他の奴隷では黒人をはじめ、中国人、インド人などがいた。
イエズス会と人身売買
キリスト教の布教をしようとするイエズス会は、人身売買を行うにはその正当性を確保する必要があるとしていた。それには「正戦」の概念が用いられたという。
イエズス会はキリスト教に改宗した大名などの戦で捕らえられた人々を「合法的な奴隷」としていた。しかし実際にその証拠が必要とされることは無く、その点は精査されず、合法性に関係無く長崎に連れて来られた人々は取引された。
毎年平均して1000人以上の奴隷が中国・マカオへ送られたというが、実際にはそれ以上の人々がいたとされる。
奴隷を購入したポルトガル人はその後奴隷に「洗礼」を受けさせた。これは洗礼を受けることで奴隷でも「キリスト教徒であり文明人」になれるという考えであった。
そして宣教師はその奴隷が合法的であることを示す証書を発行した。この奴隷契約の証書には「終身契約」と「年季契約」があった。当時日本人側としては「年季奉公」という感覚があったとされ、この労働形態は日本でも見られた習慣であった。
日本では「奉公」と言われるが、ヨーロッパでは「奴隷」契約と捉えられるものであった。奴隷の中には当初は年季契約だったものが、所有者が勝手に終身契約としてしまうこともあった。後になってそのことに気付き「自分は終身奴隷ではない」と解放を求めて訴える日本人も存在したという。
また終身奴隷でも労働の内容により報酬を得られた。その資金を貯め、自身の身の代金を払えれば自由となれた。報酬が得られない奴隷が自由になるには、主人の遺言によって解放されるか、用済みとされ捨てられる場合のみであった。
イエズス会の宣教師は日本人奴隷の取引が正当化される過程に事実上関与していたことになる。しかし宣教師による関与はキリスト教布教の拡大を妨げるということで、イエズス会は表向きには日本人奴隷禁止としていた。
1570年にポルトガル国王が出した「日本人奴隷を禁止とする勅令」もイエズス会が働きかけたものであった。しかしその後も奴隷取引は続けられた。
日本において奴隷貿易やイエズス会の介入が完全に無くなったのは1598年以降のことであり、それまで約半世紀にわたり続けられたのである。
日本人奴隷の環境
外国での日本人奴隷の環境はどのようなものだったのか。アジアの例を紹介する。
・中国 マカオ
マカオの奴隷の多くは港湾労働や下級船員に就き、これらの労働には賃金が払われた。これは奴隷の働く意欲を上げ主人にも都合が良かった。
また先述したように奴隷が自由になれる手段にもなった。他にも家事奴隷がおり、主人に従って料理、掃除、主人の子の子守などをした。
奴隷の中には主人が没した後、遺言状により自由になれる人がいたが、解放後、マカオに食料を売りに来る中国人を襲うなど犯罪に手を染める人々もいた。
女性は生きるために売春を選んだりした。しかし中には、家族のように大切にされた奴隷や、解放後は現地の人と結婚し定住した日本人もいた。
・インド ゴア
ゴアでは日本人奴隷は優秀な戦闘員として必要とされた。
またポルトガル領のインドではポルトガル人兵士が不足しており、ゴア島の防衛にも日本人奴隷は不可欠であった。このように傭兵の役割をしたゴア在住の日本人奴隷は非常に多かったとされる。
他にはある日本人女性奴隷の逸話がある。
ポルトガル人が購入した日本人女性奴隷の歯が白いことを主人が褒めたところ、その妻が主人の留守中に召使いに命じて、その日本人女性奴隷の歯を砕かせたという。さらにその奴隷を夫が妾にしているのではと疑った妻は、召使いに命じて熱した鉄棒を女性奴隷の陰部に押し付けさせ、結果その女性奴隷は死んでしまった。しかし所有者の家族にはなんの罰則もなかった。このような奴隷に対する虐待は日常的だったとされる。
またゴアからマカオに至るポルトガル領の港では、病気で働けない高齢の奴隷が道に捨てられ孤独死する姿もあった。このような利益も出せない上に生きる術も無い奴隷は、主人から自殺を命じられることもあった。
後に教会当局は、このような奴隷は救貧院の院長らなどに身柄を引き取らせるようにした。
奴隷貿易の禁止
本能寺の変以降、豊臣秀吉が台頭すると、1586年に九州地方を制圧するため遠征を行った。
秀吉が九州で驚いたことは「キリスト教に改宗した大名や信者の多さ、その大名の行い」だった。例えばキリシタン大名・大村純忠は領内に教会を建てるために神社や寺を破壊し、さらには殺された僧侶もいた。そして人々を強制的に改宗させていたのである。また自身の領地である長崎もイエズス会に寄進していた。
秀吉が何よりも許せなかったのは「日本人奴隷問題」であった。貧しい人々が奴隷としてポルトガル船に乗せられて売られていく現実があったのである。
秀吉はすぐに日本での布教の最高責任者であるガスパール・コエーリョに詰問した。
するとコエーリョは「日本人が売るからポルトガル人が買っている、もし止めたければ禁止すれば良い」と言い放った。
秀吉は大名の暴挙や奴隷貿易は「宣教師が裏で関与している問題」と悟ったようである。そして1587年に奴隷貿易の禁止と宣教師を追放する「伴天連追放令」を出した。またコエーリョに日本人を取り戻すことも命じ、国内にも奴隷取引禁止を発した。
しかし南蛮貿易による利もあり、当初は全面的に貿易は禁止せずキリスト教徒を弾圧することも行っていなかった。
しかし1596年にスペイン船のサン・フェリペ号が土佐に漂着した際に、日本の奉行とスペイン船員に不和が生じた。その時にスペイン船員が「スペインは布教と武力によって世界を侵略している偉大な国である」という発言をし、この事を知った秀吉は宣教師への警戒を強めた。(※サン=フェリペ号事件)
その後、キリスト教の布教に危険性を感じた秀吉は、スペイン人宣教師や日本のカトリック信者、合わせて26人を長崎に連行し処刑した。これは日本の植民地化を推し進めてくるスペインへの見せしめであった。
処刑された宣教師たちや信者たちに罪があったとは言えないが、奴隷貿易が行われていたのは事実であり、この事件は日本の植民地化が食い止められた大きな一因であるとも云えよう。
参考文献
大航海時代の日本人奴隷 中公選書
謎と疑問にズバリ答える!日本史の新視点 青春出版社
恣意的な解釈ですね。奴隷貿易の主体はあくまで奴隷商人です。こんなのは小学生でもわかる理屈ですね。
イエズス会には、その奴隷商人達の商業権利を止めさせる権利はありませんでした。なので国王に掛け合い停止の命令を出させる請願を繰り返し行なっています。
一部の宣教師達が永代奴隷にしないよう、年季奉公契約させるために関与して所有証明書を発行したのは事実です。でもそれはあくまで人道的観点でですね。10年20年働けば自由人になれるんですから。また当時は海外に行くため自ら年季奴隷になる日本人は多く、そのような日本人は年季が明ける前に脱走するため警戒されていました。また洗礼も洗礼すればポルトガルの保護を受けれる特典があったためであり、大人にはそれを拒否する権利もありました。あまり出鱈目ばっかり書くのは感心しませんね。
また正式なバテレン追放令には奴隷のことは一切書かれていません。なので現在は奴隷と追放令は無関係と解釈されてます。奴隷のことが書かれてるのはその覚書と言われてるものですね。太平洋戦争直前に伊勢神宮で白人への憎悪感を煽る文章が偶然発見されたという非常に怪しい文章ですがね。
>また正式なバテレン追放令には奴隷のことは一切書かれていません
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
1587年に豊臣秀吉が発した追放令の11か条の「覚」の記述。これ、奴隷売買のことじゃないのかな?