「戦の花」と言えば一騎打ちを思い浮かべる人が多いだろう。
しかし、一騎打ちは本当に戦で行こなわれていたのだろうか?
例えば中国の「三国志」を扱ったエンタメでは一騎打ちのシーンがよく描かれるが、古代中国においてさえ実際に一騎打ちが行こなわれていたのかどうかは、信憑性が問われるところである。
それは日本においても同様で、特に戦国時代以降は火縄銃が登場し、鉄砲一発で倒せるようになってしまった。
今回は、そんな時代の最中でも一騎打ちはあったのか検証していきたい。
戦国時代の一騎打ちの有無チェック!
火縄銃が登場している1500年代の日本の戦で、一騎打ちはあったのだろうか。
逸話があるのは以下の2つだ。
名称:第4次川中島の戦い
年月日:1561年
場所:日本信濃国川中島(現在の長野市)
交戦勢力:武田軍 vs 上杉軍
主な参戦武将:
○武田軍:武田信玄・武田信繁・武田義信・諸角虎定・山本勘助・飯富虎昌・馬場信春・高坂昌信・真田幸隆
○上杉軍:上杉政虎(謙信)・直江実綱・柿崎景家・甘粕景持・中条藤資・色部勝長・本庄繁長・村上義清・高梨政頼
一騎打ちをした人物:武田信玄 vs 上杉政虎(謙信)
一つ目は、有名な川中島の戦いだ。
この戦いは第5次まで続いたが、武田方の史料である『甲陽軍鑑』において「第4次で一騎打ちがあった」との記述がある。
名称:姉川の戦い
年月日:1570年
場所:近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)
交戦勢力:織田・徳川連合軍 vs 浅井・朝倉連合軍
主な参戦武将:
○織田・徳川連合軍:織田信長・坂井政尚・池田恒興・木下秀吉・柴田勝家・徳川家康・渡辺守綱・酒井忠次・石川数正・榊原康政・本多忠勝
○浅井・朝倉連合軍:浅井長政・磯野員昌・浅井政澄・阿閉貞征・新庄直頼・遠藤直経・朝倉景健・前波新八郎・真柄直隆・真柄直澄
一騎打ちをした人物:本多忠勝 vs 真柄直隆
2つ目は、これまた有名な戦で、姉川の戦いだ。
徳川軍の本多忠勝と、朝倉軍の真柄直隆が一騎打ちをしたという逸話がある。
見つかったのはこの2つぐらいで、やはり一騎打ちはほとんど行われなかったと考えた方が良さそうだ。
それでは、この2つについて解説していこう。
第4次川中島の戦いの一騎打ち
まずは、第4次川中島の戦いにおける一騎打ちが、どのように行われたのかを解説する。
『甲陽軍鑑』の記述を簡単に解説すると、上杉軍が深い霧に乗じて波状攻撃を行って信玄の本陣まで突撃。その時、上杉政虎の切り込みを、床几(しょうぎ)に座っていた信玄が立ち上がって軍配で受けたという流れだ。
その文面を引用すると以下のようになっている。
萌黄緞子の胴肩衣きたる武者、白手拭にてつふりをつゝみ、月毛の馬に乗り、三尺斗の刀を抜持て、信玄公床几の上に御座候所へ一文字に乗よせ、きつさきをはづしに三刀伐奉る
引用:『甲陽軍鑑』
この文の後に『後聞けば、其の武者、輝虎也と申候』とも書いてあったが、輝虎とは上杉謙信のことであり、しっかりと謙信が突っ込んできたという記述があるのだ。
この一騎打ちは、江戸時代の軍学書である『北越軍談』にも記載されているが、どちらも軍学書であるというのがちょっと惜しい。
第四次川中島の戦いの詳細については残存文書が少ないことから、この一騎打ちが本当に行われたのかは怪しいとされている。
ただ『甲陽軍鑑』は、以前は誤りが多く史料としての信憑性は低いとされてきたが、近年は見直される傾向となってきている。
姉川の戦いの一騎打ち
姉川の戦いは、1570年に発生した織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦いだ。
一騎打ちをした人物は徳川軍の本多忠勝 vs 朝倉軍の真柄直隆であり、こちらは川中島の戦いよりも記述が少ない。
流れとしては以下である。
徳川軍が形勢不利となり、味方を鼓舞するために本多忠勝が自ら単騎駆けを行った結果、立て直しに成功する。
その単騎駆けに呼応したのが真柄直隆であり、真柄直隆の長刀『太郎太刀』と本多忠勝の槍『蜻蛉切り』でのぶつかり合いになったが、なかなか決着はつかず、その間に戦況が変わり、両者は引いたという逸話になっている。
ただし、この一騎打ちについては前述したように18世紀に書かれた栗原柳庵の『真書太閤記』ぐらいしか史料が無い。(しかも史料的価値は低いとされている)
太田牛一の『信長公記』では「青木一重に真柄は討ち取られた」とあり、山鹿素行の『武家事記』では、そもそも誰に討たれたかも書かれていない。
他の史料でも『勾坂兄弟が討ち取った』ぐらいしか書かれておらず、本多忠勝との一騎打ちに関しては記述がないのだ。
「戦国最強の武将」と呼び声高い本多忠勝の一騎打ちは心が躍るが、こちらも信憑性は低そうである。
参考 :『甲陽軍鑑』『北越軍談』『真書太閤記』『信長公記』他
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