エピローグ
「風林火山」の旗をなびかせ戦場を疾駆し、圧倒的な強さで敵兵をなぎ倒していく。そんな戦国最強のイメージが強い武田信玄と武田軍団。
大河ドラマ『どうする家康』では、阿部寛さん演じる信玄は、徳川家康や織田信長でさえ、全てにおいて敵わないような大人物として描かれています。
ドラマでは1572年、約4万の軍勢を率いての西上作戦途中の三方ヶ原の戦いで、家康を完膚なきまでに破った信玄が、浜松城に籠城する徳川軍をあざ笑うかのように、織田領へ兵を進めていくシーンが登場。
今回は、武田信玄がなぜ戦国最強と称されるのか、その理由を探っていきましょう。
信玄なくしては信長包囲網は実現しなかった
武田信玄は、三方ヶ原の戦いの翌年1572年4月に病気が重篤し、甲府への帰還中、信濃国駒場で死去しました。信玄は出陣前から健康に不安を感じていたといわれます。では、死を覚悟してまで西上作戦を決行した理由は何だったのでしょうか。
それは、信長と対立する15代将軍・足利義昭が策謀した、信長包囲網に呼応したことは間違いないでしょう。
義昭は各地の戦国大名に御教書を送り、反信長を訴えます。
それに明確に応えたのは、信玄(甲斐・信濃・駿河など120万石)をはじめ、浅井長政(北近江20万石)・朝倉義景(越前50万石)・三好三人衆(摂津・泉州・阿波など40万石)などの大名の他、比叡山延暦寺・本願寺・雑賀衆・伊賀衆・甲賀衆などの寺社勢力でした。
信長包囲網を構築した勢力の総石高をおおまかに計算しますと、大名だけで約230万石。その兵力は約11万人。これに寺社勢力が各々約数千人とすると、その総数は12~13万というところでしょうか。
信玄の他は、畿内近くに領地を持つ勢力ですが、120万石の信玄が加わらないとその兵力は、8万ほどに激減してしまいます。これはあくまで、各々が領国に残す留守部隊などを含んだ計算でが、信玄の西上なしでは、信長包囲網は成立しないといっても差し支えないでしょう。
一方、この当時、織田信長は約400万石、徳川家康は約50万石を知行しており、合計で約450万石。その兵力は、おおよそ22万ほどになります。やはり信長の勢力は絶対的です。信長にとっては、たとえ信玄が尾張・美濃に侵入したとしても、そう安々と負けるはずがないという確信があったはずです。
また、信長包囲網には、信玄と同盟を結んだ北条氏政(関東200万石)という大勢力がいましたが、余りにも畿内から遠すぎました。
つまり、尾張・美濃・三河を中心に畿内を押さえる信長・家康連合と比べると、信長包囲網は機動力の面でも劣っていたのです。
信玄の死が、室町幕府滅亡を招いた
では、信長の兵力が約20万。対して信玄が約6万という圧倒的な差がありながら、なぜ信玄が戦国最強軍団と称されるのでしょうか。
先ず言えるのは、武田軍団の実戦での強さということでしょう。信長包囲網の大名の内、精強といえるのは浅井軍くらいです。朝倉軍もそこそこ強いのでしょうが、当主の義景がいまいちやる気がない。三好三人衆も三好長慶死後、各所で信長に敗れており衰退著しい状況にありました。
義昭にとっては、上杉謙信・北条氏康など精強な大名たちと戦いを繰り広げた実績を持つ武田軍団なくしては、打倒信長は不可能ということになってしまうのです。
しかし、信玄の死を知らない義昭は、信長の和議提案を拒絶。二条御所を奉公衆の三淵藤英らに預けた上で、7月3日、宇治槇島城で挙兵するものの信長に攻められ、18日に投降。ここに室町幕府は事実上滅亡しました。
信玄の死による信長の行動は素早いものでした。8月、浅井・朝倉攻めのために出陣。20日、一条谷を陥れ朝倉義景を滅ぼします。27日には、小谷城を墜とし、浅井久政・長政父子を自害に追い込みます。信玄がいなくなることで、信長包囲網は完全崩壊。
ここからの信長は、一気に天下布武への道をひた走っていくことになるのです。
武田軍団の強さは信玄の合議制にあった
そしてもう一つ、これこそが、武田信玄が戦国最強軍団といわれる理由がありました。それは、家中をまとめるために「合議制」を採用したことだったのです。
信玄は、多くの家臣たちを集めて意見を聞く「合議」。今でいう「会議」を盛んに行ったとされます。これは、戦国時代では珍しいことで、多くの大名は合戦や内政など重要な決断を行うのに自分自身か、あるいは少数の側近のみの意見を聞き決定していたのです。
戦国大名の多くは、代々その大名に仕えていた者だけでなく、戦いの過程において服従した者たちも多く含まれるという、複雑なお家事情を抱えていました。
家臣の中には、裏切りの機会を狙っている者や、敵から送り込まれたスパイなどもいるのが当たり前。そんな状況で多くの家臣たちを交えて重要な事柄を話し合うのは、とても危険な行為であったのです。
しかし、信玄が危険を冒してまでも、家臣たちの意見を尊重する合議制を行ったのは、家督相続時の苦い経験からでした。
信玄が誕生した1521年頃の武田家の力は脆弱で、甲斐国主といえども父・信虎に対する家臣たちの忠誠心は薄く、領内では内紛が絶えないという状況でした。
そんな家臣団に、信虎は強硬策に出ます。自分の意に沿わない者たちを容赦なく処断したのです。その結果、多くの家臣たちから反発を買っていました。
そして1541年、ついに重臣たちを中心に信虎追放というクーデターが勃発し、新たな国主の座に信玄が就きます。こうした状況ですから、家臣団の団結力は弱く、若き国主は家臣たちの掌握に苦労し続けました。
その結果、家臣団を束ねるには、その言い分にしっかりと耳を傾けること。そして、何より領土を拡大し、彼らの所領を増やし、安堵することだという結論にたどり着いたのです。
合議の際に、信玄は出席した家臣全員に意見を述べるように促したとされます。家臣の意見を取り入れることで、戦いで勝利を得たり、内政問題の解決に至った時、信玄はその功績を第一とし褒め称え、十分な報酬などで報いました。
こうした信玄の姿に、多くの家臣たちは奮い立つつとともに、武田家という組織の運営に自分たちが主体的に参加しているという意識を持ち、主君信玄に対する信頼感や連帯感が強まったのはいうまでもないでしょう。
このようにして「風林火山」の旗のもと、信玄の下知に従い際立った進退をみせる、戦国最強と称される武田軍団が構築されていったのです。
まとめにかえて
1572年頃の信長は、大勢力を築きつつあったものの、四方を敵に囲まれ決して余裕があるわけではありませんでした。特に京都は少しでも目を離すと、浅井・朝倉・三好三人衆・比叡山などの侵入を許し、その対処に苦慮することが多かったのです。
そこに、信玄が西上作戦を開始。三方ヶ原で家康があっけなく敗れたために、その進路に信玄を阻止する兵力を割かなければなりませんでした。その軍勢は信玄の4万以上が必要で、信長にとってはかなりの負担であったと考えられます。
もし、信玄が死去することなく軍を進めていれば、信長との戦いの結果はどうなったか。それは誰にも分かりません。ただ、この頃の信玄と武田軍団には「向かうところ敵なし」という表現がぴったりな凄みすら感じられます。
強力なリーダーとして明確なビジョンを打ち出すとともに、家臣たちの意見を尊重しながら彼らを導いた信玄。信玄を頂点として家臣たちは信頼と結束の絆で結ばれ、強靭な組織が構築されました。それが、信玄とその家臣団をして、戦国最強軍団と称される理由だと考えるのです。
信玄亡き後、武田家臣団は跡を継いだ勝頼をよく支えます。勝頼もその期待に応え、信玄以上の版図拡大に成功しました。
しかし、長篠の戦で信玄時代からの多くの重臣を失い、さらに高天神城落城により、家臣たちの信用を失った後は、ひたすら滅亡への坂道を転げ落ちていくのです。
※参考文献
風巻紘一著『武田信玄のリーダー学』三笠書房 昭和60年
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