「暗殺」は、古来より世界中で多く行われてきた。
日本においても、古くは飛鳥時代に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変、中世においては本能寺の変、江戸時代の赤穂事件など、規模が大きなものから小さなものまで枚挙にいとまがない。「暗殺」が歴史を作ったと言っても過言ではないほどだ。
忍びを使った暗殺、食べ物に毒を混ぜての毒殺、色仕掛けからの暗殺、和平を偽っての奇襲など、古来よりその手口も多岐にわたっていた。
戦国時代になると火縄銃が登場し、新たに「狙撃による暗殺」も行われるようになった。
そこで今回は「狙撃による暗殺」に焦点を当てて掘り下げていきたい。
狙撃による暗殺はそもそもあったのか?
戦国時代において、狙撃による暗殺はどれほどあったのだろうか?
結論から言うと『狙撃による暗殺はいくつかあったが数は多くない』となる。
その中でも特に有名なのが、宇喜多直家による暗殺と、織田信長を狙った暗殺である。
1566年に実行された宇喜多直家による暗殺は「日本初の火縄銃による暗殺」と言われている。
信長を狙った暗殺は、鉄砲の名手・杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅうぼう)による狙撃である。
杉谷善住坊は正体不明な人物であり、どこの出身なのかも明らかにされていない。
宇喜多直家の狙撃暗殺令
まずは、宇喜多直家の狙撃暗殺令について簡単に解説する。
火縄銃が日本に伝わったのは1543年頃とされており、それから約20年後の出来事である。
暗殺命令者:宇喜多直家
暗殺実行者:遠藤秀清
暗殺対象:三村家親
暗殺場所:美作国(岡山県東北部、兵庫県佐用郡佐用町の一部)
暗殺実行年:1566年
結果:三村家親の暗殺に成功
宇喜多直家は、敵対していた備中国の三村家親との直接対決は避けたいと考えていたので、顔見知りの浪人であった遠藤兄弟(俊通・秀清)に鉄砲暗殺指令を出した。
遠藤兄弟は火縄銃の扱いに長けていたが、成功率は高くないと見ていたようで「失敗した時は生きて帰れぬであろうから、その折は家族をよろしくお願いします」と宇喜多直家に申し出て快諾されている。
暗殺のタイミングは、三村一族が美作攻略の溜めに軍議を開いていた夜の興善寺だった。
遠藤兄弟は陣中に忍び込んで発砲し、見事に三村家親に命中させたが、夜なうえに遠目だったことと三村軍に全く動揺が見られなかったことから、確証を持てぬまま直家に報告した。
そして直家も暗殺の成功は信じなかったという。
しかし、三村軍が動揺しなかったのは三村家家臣の機転によるもので暗殺は成功しており、最終的に軍を引かせることに成功したのだった。
織田信長への狙撃暗殺令
織田信長を狙撃した杉谷善住坊は正体不明の人物で、出自においては忍者説や城主説、賞金稼ぎ、猟師説など様々な説がある。
1978年に放送された大河ドラマ『黄金の日日』でも描かれており、ドラマを見たことがある人にとっては聞き慣れた名前だろう。
暗殺命令者:六角義賢
暗殺実行者:杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)
暗殺対象:織田信長
暗殺場所:千草峠(今の東近江市の東側)
暗殺実行年:1570年
結果:20数mの距離から2発撃ったが織田信長にはかすり傷のみで失敗し、1573年10月には実行犯の杉谷善住坊は捕らえられ鋸挽きの刑で処刑された
信長は、越前朝倉氏攻めを実行しようとしたときに浅井長政に裏切られ、辛くも京都方面に脱出する。
信長と敵対していた元近江守護の六角義賢はこれを好機と考え、鉄砲の名手として知られていた杉谷善住坊に信長暗殺命令を出した。
信長は岐阜城に帰城するため、伊勢方面へ抜ける近江国の千種街道を通過したが、その行程で狙撃されたのだった。
しかし、暗殺は失敗して杉谷善住坊は逃亡生活に入る。
信長は自身が暗殺されそうだったことに気がつくと激怒し、なんとしても杉谷善住坊を捕らえるように部下に指示を出した。
そして3年が経過した1573年、杉谷善住坊は元浅井家臣の磯野員昌によって捕えられ、鋸挽きの刑によって処刑された。
おわりに
他に有名な狙撃による暗殺は、鉄砲の名手と呼ばれた鳥居三左衛門が武田信玄を狙撃した逸話がある。
武田信玄の命を縮めた一発の銃弾 【野田城で信玄を狙撃した鳥居三左衛門とは】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/ieyasu/67224/
火縄銃による暗殺は確かにいくつか存在するものの、その威力の割には狙撃の逸話はそれほど多くはない。
元々日本は湿度が高く雨が多い国なので、火縄銃の使用は雨天に左右されやすいうえ、扱う者の技術の高さも要求される。
奇襲やだまし討ち、毒殺などの暗殺の方がより確実性が高かったと言えそうだ。
参考 : 『信長公記』
この記事へのコメントはありません。