松永久秀(まつながひさひで)といえば、茶器「平蜘蛛」とともに爆死したことで知られています。
久秀は、織田信長に「この老人は、天下に名を轟かす三つの悪事を犯した」と紹介されたほど悪役のイメージが強い人物ですが、茶の湯を愛し茶の湯を通じて様々な人物と交流していました。
また、戦功においても戦の逸話よりも「和睦をまとめた」という逸話のほうが多く、コミュ力が高かったことがわかります。
今回は、茶の湯を愛し茶器とともに爆死した松永久秀について掘り下げていきます。
松永久秀とは
松永久秀は1508年の生まれとされています。しかし出身地には諸説あり、阿波国・山城国・摂津国の土豪出身など、はっきりとした出身地はわかっていません。
久秀は最初、三好長慶に仕えていました。その頃から交渉役として室町幕府将軍の側で活動していました。
長慶が亡くなると長慶の甥にあたる三好義継に仕え、三好三人衆とともに三好家を支えますが、途中三人衆と衝突することもあり、畿内平定への混乱の渦の中にいました。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際にはこれに協力し、信長とは同盟関係にありましたが、信長と義昭の仲が悪化してくるとそれに伴い、久秀と信長の関係も悪化します。
久秀は反信長勢力と手を結び「信長包囲網」に参加しますが、その後、包囲網は破綻。
最後は信貴山城に籠城しましたが、信長軍に取り囲まれたことで天守に火をかけて自害しました。享年68。
茶人としての松永久秀
久秀は悪役というイメージが強い武将ですが、一方で茶の湯を愛する茶人でもありました。
元々茶の湯は中国から持ち込まれた文化で、公家や僧侶の間で親しまれてきました。
鎌倉時代には武士の間でも嗜まれるようになり、鎌倉時代から室町時代にかけて「闘茶」という茶を飲んで産地や銘柄を言い当てる利き茶が広がり、一気に浸透していきました。
そのような中で、茶の湯の本場である中国製の茶器が人気となっていきます。大名たちはこのような茶器を蒐集し盛大な茶会を開いていました。
戦国時代には茶の湯は武士の嗜みの一つとなり、信長が臣下を労う際に土地や金銭の代わりに茶器を与えはじめたことで、「名器」と呼ばれるような茶器はどんどん価値が上がっていきました。
茶会は地位や権力を示す手段の一つともなり、茶道具は外交手段としても用いられるようになります。
実際に信長が畿内を平定した際には、今井宗久が「紹鴎茄子(茶入れ)」「松嶋(茶壷)」を献上、本願寺の顕如も和睦の証として「紹鴎白天目(茶碗)」を献上しています。
このように茶器や茶道具は戦国大名にとっては一種のステータスとなっていきましたが、その中でも群を抜いていたのが松永久秀なのです。
茶人・松永久秀の優雅な交流
茶人としての久秀は、茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)の弟子であり、大和国へ入る前から千利休の師である北向道陳や山上宗二、今井宗久など茶人として高名な堺の豪商と茶会を催していました。
大和国一国を与えられた後も交流は続き、堺の豪商で茶人としても知られる津田宗達の茶会に招かれ、その翌年には奈良の鉢屋紹佐の茶会へも参加しています。
多聞山城で自らが開いた茶会では松屋久政、若狭屋宗可、久秀の侍医でもあった曲直瀬道三らを招き、別の茶会では千利休を招いています。
久秀は、茶の湯を通じて多くの文化人と交流があったのです。
茶道具コレクター・松永久秀
松永久秀は、茶道具コレクターでもありました。
信長に献上した「九十九髪茄子(つくもかみなす)」は、室町将軍の中でも最も権力を持っていたと言われる、3代将軍・足利義満秘蔵の茶入れです。
8代将軍・義政の時代に、義政の茶道の師・村田珠光の手に渡り、所有者を転々としながら価値は上がっていき、久秀が手に入れたときには一千貫払ったという大変高価なものでした。
この茶入れは宣教師・ルイス・フロイスの記録の中にも登場し、信長が本能寺で明智光秀の謀反にあった際にも九十九髪茄子は本能寺に持ち込まれていたことがわかっています。
その後、本能寺の焼け跡から発見されて豊臣秀吉の手に渡り、秀頼に受け継がれ、大坂夏の陣で再び戦火に遭い、徳川家康の命で焼け跡から発見されましたが破損しており、藤重藤巌の手で漆接ぎが行われました。
ちなみにこの「九十九髪茄子」は、久秀が手に入れたときの金額を現在の価値に換算するとなんと1億超えになります。
久秀の最後を知る名器・古天明平蜘蛛
松永久秀といえば信貴山城で爆死したという逸話が有名ですが、その時に信長から「渡したら赦す」と言われていた茶道具がありました。
それが「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」という茶釜です。
どのような姿だったのかは現在知ることができませんが、この平蜘蛛は信長が久秀に対して幾度となく所望していたもので、久秀が信貴山城に籠城していた際にも「この茶釜を信長に献上すれば赦す」と言われていました。
しかし、久秀はそれを拒否し自害したのです。
『信長公記』によると、久秀は平蜘蛛を叩き割ってから自害したとあり、平蜘蛛に火薬を詰めて爆死したという逸話もあります。
平蜘蛛に関しては他にも、信貴山城の焼け跡を掘り起こした際に出土し信長の手に渡ったという説や、久秀が砕いたものは偽物で久秀の友・柳生松吟庵に譲っていたなど諸説あります。
終わりに
松永久秀は「三大悪事」や「爆死」のイメージが強い人物ですが、茶の湯を愛し、文化人との交流も多い風雅を嗜む人物でもありました。
茶の湯を通じて多くの人物と交流していたことで、戦の中でも和睦交渉などで数多く活躍しました。
「九十九髪茄子」は現存しており静嘉堂文庫美術館が所蔵しています。特別展でみられるので興味がある方はぜひ足を運んでみてください。
参考 :
桑田忠親「戦国武将と茶の湯(宮帯出版社)」
太田牛一「信長公記」
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