戦国武将の5つの節目とは
日本の戦国時代(約15世紀から17世紀初頭)は、多くの領主たちが各地に分立し、彼らが率いる一族や家臣団とともに、権力争いや領土拡大のために戦いが繰り広げられていた時代である。
その中で、戦略や武勇に優れた武将が登場し、彼らの名は日本史に残ることとなった。
そんな戦国武将たちの人生には、5つの大きな節目があった。それは
「元服(げんぷく)」「初陣(ういじん)」「婚姻(こんいん)」「家督(かとく)」「隠居(いんきょ)」の5つであり、死は「辞世(じせい)」と呼ばれていた。
今回は戦国武将の5つの節目について、わかりやすく解説する。
元服
「元服」は、戦国大名家の家に生まれた男子の成人を祝う儀式のことだ。
現在の日本では満18歳を迎えることで成人になったと見なされるが、戦国時代の成人は必ずしも何歳と決まっていたわけではない。
多くの大名家では、おおよそ13歳~18歳位に元服の儀が執り行われていた。
元服の儀によって成人になると、それまで名乗ってきた幼名を捨て「諱(いみな)」が決められた。
「元服」の「元」は頭の意味を持ち、「頭に烏帽子(えぼし)を服す」というのが言葉の由来だという。
元服の儀において烏帽子を被せる役は「烏帽子親(えぼしおや)」と呼ばれ、元服を受けた者は、その烏帽子親を生涯に渡って敬わなければならなかった。
初陣
そして「元服」を終えた男子が、初めて戦に出陣し「初陣」を飾る。
中には元服後、すぐに初陣を飾ることを重視した大名家もあったが、実は「何歳までに初陣を飾るべき」という明確な基準があったわけではない。
例えば毛利元就の初陣は20歳と遅めだったが、その次男・吉川元春の初陣は11歳と早めだった。
これは元服前の元春が、元就の反対を押し切って出陣したからだ。
また、武田信玄のように16歳以下の初陣を禁じたという例もある。
婚姻
さて「元服」と「初陣」を果たすと、次は「婚姻」である。
戦国時代の婚姻は、多くの場合が政略結婚だった。
出会いから一定の交際期間を経て、めでたくゴールインという現代的な恋愛結婚をしたのは豊臣秀吉などごく少数で、ほとんどは決められた相手と添い遂げるのが常だった。
婚礼から3日目に、白装束から色のついた衣装に着替える「色直し」を経て、婚姻関係を固めるための「三三九度(さんさんくど)」といった儀式が執り行われた。
家督
「家督」とは、家父長制度における家長権を指し、その家の家長権を譲り受けることを「家督を継ぐ」という。
戦国時代では、40歳を迎えると「初老」という扱いになり、名目的には後継者に家督を譲ることになっていた。
正室が産んだ長男の「嫡子(ちゃくし)」が、財産権と合わせて相続するのが一般的で、最初の約10年は父が実権を握り続け、段階的に権力を移行していくのが家督相続の理想とされていた。
織田信長の場合は、40歳を過ぎた天正4年(1576年)に嫡子・信忠に家督を譲り、徐々に権力の移行を進めていたが、天正10年(1562年)本能寺の変が起きて、49歳で予期せぬ最期を迎えた。
しかもこの時、信忠も明智軍に包囲されて自害してしまった。
この後、実質的な後継者を巡る様々な争いが生じることとなった。
隠居
無事に家督を嫡子に譲り、実権の移行も済ませた戦国武将は、ここでようやく「隠居」することになる。
隠居後は出家して仏門に入る者もいれば、引き続き主君に仕える者など、その生き方は様々だった。
最終的に戦国時代に天下を統一した徳川家康は、江戸幕府を開いた後に嫡子・秀忠(秀忠の母は側室)に家督を譲り、大坂の陣で豊臣家を滅亡させた。
その後、実権も移行させ、元和2年(1616年)に75歳で病没した。
戦国武将の家督相続としては理想的な形と言えるだろう。
徳川家と江戸幕府は、その後250年にも及ぶ泰平の世を統治することになる。
このように、戦国武将の生涯において「元服、初陣、婚姻、家督、隠居」という5つの節目は重要な出来事であり、これらの節目を通じて自らの家系や領土を確立していった。
現在ではこれらの儀式はほぼ失われてしまったが、日本の歴史と文化に深く刻まれ続けている。
参考文献:安藤 達朗、山岸良二、佐藤 優(2016)『いっきに学び直す日本史 − 古代・中世・近世 教養編』
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