松平忠吉とは
松平忠吉(まつだいらただよし)とは、徳川家康と側室・於愛の方(西郷局)との間に生まれた四男である。
母・於愛の方は、とても美人で温厚な人柄だったとされ「どうする家康」では、広瀬アリスが演じている。
同母兄には後に2代将軍となる三男・秀忠がいる。
松平忠吉は母に似て、器量を備えた美男子だったという。
しかも人望もあり、徳川四天王の1人・井伊直政の娘を娶っている。
義父・井伊直政は赤備えの甲冑を着用していたが、忠吉は白い糸を用いた甲冑を着用し、関ヶ原の戦いでは福島正則と先陣を争い、一番槍の手柄を挙げた。
有名な島津の脱出劇「島津の退き口」では、島津義久の甥・島津豊久を討ち取るなどの武功を挙げたが、この時のケガが原因で28歳の若さで早世した。
今回は、28歳の若さで亡くなった家康のイケメン四男・松平忠吉の生涯について解説する。
出自
松平忠吉の実母・於愛の方は、従兄弟の西郷義勝と結婚して1男1女を儲けたが、元亀2年(1571年)に夫・義勝が戦場で亡くなり、母のもとに身を寄せていた。
天正6年(1578年)家康が同屋敷を訪れた際に、於愛の方を見初めて浜松城に連れ帰り、於愛の方は叔父・西郷清員の養女となって「西郷局」となり、家康の側室となった。
天正7年(1579年)4月に長松(秀忠)を、翌天正8年(1580年)9月に福松丸(忠吉)を産んだ。
その後、東条松平家当主・松平家忠が病死したため、福松丸がその家督を継いで三河東条1万石の領主となった。この時に名を祖父・広忠と父・家康の一字を拝領して「松平忠康」と改め、翌天正10年(1582年)に駿河沼津4万石の城主となった。
ここでは、元服後に改めた「忠吉、または松平忠吉」と記させていただく。
母・西郷局は天正17年(1589年)に亡くなったために、秀忠と忠吉は家康の側室・阿茶局に育てられたという。
忠吉は父・家康から「学問を怠らないように」と励まされる手紙も受け取っている。
生後間もなく東条松平家1万石、3歳で沼津4万石の領主となった忠吉に、家康は徳川家を背負う逸材となるように期待をかけた。
小田原征伐後に父・家康が関東に移封となると、忠康は忍城主として10万石を与えられ、元服して名を「忠吉」に改めた。
しかしこの時まだ13歳だったため、忍城に入ったのは深溝松平家の松平家忠で、内政が一通り整備された後に正式に忠吉が領地入りする、という形式が取られた。
この頃に徳川四天王の1人・井伊直政の長女・政子(後の清泉院)を娶ったという。
幼かった忠吉の後見として井伊直政がつくことになり、忠吉は武芸に励んだ。
政子との間には、慶長2年(1597年)に実子・梅貞大童子が生まれたが、生後16日で早世したという。
江戸時代前期に書かれた「武野燭談」には、「忠吉はとても美男子(イケメン)で、天下の諸侯が松平忠吉のためには命も惜しまないというほどの人望を得ていた」と記されている。
関ヶ原の戦い
忠吉の器量が大いに発揮されたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。
忠吉は、父・家康と共に会津征伐に向かっていたが、石田三成の挙兵を知って家康に先んじて東海道を西に進み、福島正則ら外様大名たちを率いたという。
当初、忠吉は駿府城の城番だったが、義父・井伊直政の進言によって家康より前に大垣方面へと進んだ。
この時21歳で、関ヶ原の戦いが初陣であった忠吉は、福島正則を出し抜いて宇喜多秀家に鉄砲を撃ちかけ、井伊直政と共に開戦の口火を切る一番槍を得た。
薩摩の島津義弘軍は後に「島津の退き口」と呼ばれる退却を行なった。この時に義弘の甥・島津豊久は義弘を守るために捨て奸(すてがまり)という戦術で殿(しんがり : 部隊の最後尾)を守った。この時に忠吉は初陣にもかかわらず、ケガを負いながらも豊久を討ち取るという大きな武功を挙げた。
義父・井伊直政も、この時に島津軍に鉄砲に撃たれて負傷している。
忠吉は、この戦いの論功行賞として忍城10万石から尾張国から美濃国にかけて52万石へと大出世し、清須城主となったのである。
最期
徳川本隊3万8,000の兵を率いた兄・秀忠が遅参したために、関ヶ原の戦いで徳川家臣団として最高の活躍をしたのは忠吉であった。
徳川実記によると、その後に家康は5人の重臣を集めて「誰に家督を譲るべきか」と意見を求めたという。
本多正信は次男・結城秀康を推し、大久保忠隣は三男・秀忠を推し、井伊直政は四男・忠吉を推したが、家康は数日考えた末に秀忠を後継者として選んだ。
父・家康が駿府で大御所政治を行なうと、忠吉は兄・秀忠の将軍補佐役として幕政にも協力した。
しかし、慶長9年(1604年)に忠吉は病に侵された。関ヶ原の戦いで負ったケガが原因とされている。
翌年には腫物を患い一時は危篤状態に陥ったが、この時は投薬で何とか蘇生した。しかし慶長12年(1607年)江戸に下向し、家康・秀忠と面会した数日後の3月5日に死去した。
享年28であった。
2代将軍・秀忠は、同母弟の忠吉の早過ぎる死を非常に悲しんだと伝っている。
おわりに
関ヶ原の戦いで義父・井伊直政と共に先鋒を任された松平忠吉は、初陣にもかかわらず大戦功を挙げたが、その時のケガがもとで、わずか28歳で亡くなった。
忠吉には嗣子がなく、清須藩は弟の九男・五郎太丸(後の徳川義直)が継いだ。
そのため、尾張徳川家の宝物を所蔵する徳川美術館には、忠吉の武具も所蔵されている。
義父・井伊直政が赤備えの具足であったので、忠吉は好対照な純白の糸を使った甲冑を愛用したという。
参考文献 : 徳川実記、武野燭談
松平忠吉は歴史好きからしたら、義父・井伊直政の娘婿として初陣の関ヶ原の戦いで大活躍した家康の四男。
早世したからTVドラマでは関ヶ原の戦いと家康の後継者選びにしかほとんど出てこないから、歴史好きしかしらない家康の四男だ。
本来なら御三家は結城秀康とこの松平忠吉と五男・武田信吉かも、3人とも早世したから御三家になれなかったのよ!
ここに目をつけたrapportsさんはさすが歴史好きですね。やられました。