家康と元亀元年
元亀元年(1570年)は、徳川家康の長い人生の中でも最も苦難が多く、無理に無理を重ねた地獄のような1年だったと思われる。
家康が29歳の年である。
姉川の戦いなど3度の大軍事遠征を強行し、更に岡崎から浜松へ本拠地の大移転まで行った。
なぜ、この1年に家康はそこまで無理を重ねたのか?
今回は、姉川の戦いの最新研究や、これまであまり注目されることがなかった将軍・足利義昭との関係を鍵に、家康の人生の転機となった元亀元年について解説する。
元亀元年のはじまり
今からおよそ450年前に「元亀 : げんき」という年号の時代があった。
朝廷の許しを得てこの元号に改元したのは、室町幕府第15代将軍・足利義昭であった。
織田信長の後ろ盾で将軍に就任した義昭は、信長に追放されるまでの3年間、将軍の権威と室町幕府の復興を目指した。
4月に元亀と改元される永禄13年(1570年)1月、信長は将軍・義昭の権威を背景に「天下静謐 : てんかせいしつ」を目指し、全国の大名たちに上洛を命じた。
しかし、信長の同盟者である家康は、この時余裕のない多忙な日々を送っていた。
本拠地・岡崎城に替わる新しい城造りに追われていたのである。
見付城の放棄(幻の城)
その城とは、現在の静岡県磐田市の見付城(城之崎城)という城であった。
家康は遠江を支配下に治めたことで、領国の西に偏り過ぎている岡崎から、古くから遠江国府が置かれ政治・経済・交通の要衝でもある見付に本拠地を移そうと、巨大な城を建造していたのである。
しかし、近年の調査・研究によって、どうやら永禄12年(1569年)秋頃には、見付城はほぼ完成していたことが分かった。
ところが、完成したばかりの巨大な城・見付城は、家康の入城を待たずに放棄され、何と幻の城となってしまうのである。
それは、家康と同盟を結んでいた信長が、見付城の移転に強く反対したからである。
信長が懸念を示した理由は、見付城の西側に巨大な天竜川が流れていたからである。
もし、天竜川が増水している時に徳川に何かあっても、速やかな援軍の派遣が難しくなり助けにくいと信長は考えたのだろう。
こうして、見付は政治・経済・交通にとって非常に重要な場所だったが、信長の「本拠地とするのは考え直して欲しい」という要請により見送りとなったのである。
これが、ほぼ完成しかけていた見付城を放棄した最大の理由である。
家康にとって、当時最大の仮想敵は甲斐の武田信玄だった。
万が一、信玄との決戦があった場合に備え、信長の支援を受けやすい場所に本拠地を置くのは道理に適っていた。
だが、見付に替わる新たな本拠地をすぐに決めなければならなかった。
元亀元年は、そうした慌ただしい状況の中、信長の上洛要請で始まったのである。
金ヶ崎の退き口
上洛要請の翌月、永禄13年(1570年)2月に、家康は自ら兵を率いて京に上った。
そして4月、徳川軍は信長と共に上洛した諸大名3万の兵と共に、越前への遠征軍に組み込まれることになる。
これは、信長に反抗する朝倉義景を攻めるためであった。
信長や家康が越前に出陣した直後の4月23日、将軍・義昭が元亀へと改元した。
家康は朝倉方の前線である手筒山城を南側から攻め、その日のうちに城を陥落させた。
快進撃を果たした徳川軍は、朝倉攻めの先鋒を努めることになった。
ところが、信長の妹婿で同盟者である北近江の浅井長政の裏切りが勃発したのである。
まさかの事態に信長は撤退を余儀なくされ、わずか10名を従えて急ぎ京に戻った。
世に言う「金ヶ崎の退き口」である。
最前線にいた徳川軍は、朝倉軍に追撃されながら決死の撤退戦を開始した。そして金ヶ崎城ではなく、越前と若狭の国境の国吉城に向かって撤退した。
もう少しで国吉城につくというところで、信長から殿を任された木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍が朝倉軍に囲まれているのを発見した。
家康は見過ごすことができず、木下藤吉郎軍を助けたという。
そして、家康は何とかこの撤退戦を切り抜け、木下藤吉郎と共に一旦京に戻った。
その後、裏切った浅井長政の支配地域を避けながら行軍し、ようやく岡崎に辿り着いたのは5月であった。
命からがらの撤退戦だったが、家康にとって最も長く苦しい1年は、まだ始まったばかりであった。
姉川の戦い
元亀元年(1570年)6月、金ヶ崎で手痛い敗戦を味わった信長は、裏切り者・浅井長政の報復に向かった。
ところが、浅井の居城・小谷城に、朝倉の援軍8,000が駆け付けようとしていた。
浅井軍5,000と合わせれば、敵の兵力は1万3,000の大軍勢となる。
そこで信長は、家康に再び北近江への出兵を求め「一刻も早く援軍を送ってくれ」と要請した。
満身創痍の撤退戦から、わずか一月あまりの再度の遠征は、家臣や兵たちにとって大きな負担である。
だが、それでも家康は出陣を決断した。
なぜ家康は、この無茶な要請に応じたのだろうか?
実は家康は、足利義昭による室町幕府再興の手助けをしていた。
かつての今川からの独立も、13代将軍・足利義輝と直接的な関係を持って臨んでいたからである。
足利将軍家と家康とのつながりは信長の下で行われたような印象だが、実は今川から独立した時からつながっていたのだ。
室町幕府を支える全国の武将たちの名前の一覧に「松平蔵人」、すなわち家康の名も連ねられている。
この時、家康は将軍直参の奉公衆という立場だったのである。
後に起こる姉川の戦いも、実は将軍・義昭が自ら出陣する予定であり、家康も義昭との関係で動いた(出陣した)のである。
家康としては、将軍・義昭と直接的なつながりを持つことに大きな意味があった。織田の家臣として取り込まれるのではなく、あくまでも信長と対等という立場をアピールするためにも重要なことだったのだ。
姉川の戦いでは、徳川軍が朝倉軍を迎撃した上で浅井軍も突き崩し、劣勢だった織田軍を救ったというのが通説である。
しかし近年、これには徳川時代の脚色が含まれていると言われている。
歴史家・太田浩司氏によると、「血原」や「千人斬りの丘」といったこの戦いにまつわる地名や伝承が集中している場所は、実は家康の本陣側ではなく姉川を渡った北側であり、そこが主戦場だったのではないかとされている。
つまり、通説とは異なり
「徳川軍が先に姉川を渡った後に朝倉軍から攻撃され、劣勢になった朝倉軍は小谷城に撤退し、徳川軍がそれを追撃した」
というのが、姉川の戦いの真相ではないかと研究されている。
そのため、徳川軍はまさに背水の陣状態で「血原」という地名がつくほどの激戦となり、実際には織田・徳川軍の大勝利ではなく、引き分けに近かったともいわれている。
それを裏付けるかのように、浅井・朝倉軍はわずか3か月後に志賀の陣で信長に大攻勢をかけている。
3度目の出陣
いつ終わるとも知れぬ長い戦いが続く中で、家康はこの年3度目となる出陣要請を求められる。
姉川の戦い後、家康は見付城に替わる新たな居城・浜松城の普請に追われていた。
現在の浜松城は石垣に覆われた堅固な要塞だが、当時の浜松城は今とは違ってほぼ土作りの城だった。
さらに、先祖代々の土地に固守する三河家臣団を浜松に移転させることは、かなり難儀したようである。
こうして家康はようやく浜松城に入り、やっと一息つけるかと思ったわずか2日後の9月14日、将軍・義昭から直々に「信長の援軍に加わるように」との出陣要請が届く。
この時、信長に対して、三好三人衆に加え、石山本願寺、更には浅井・朝倉勢がこの機に乗じて南近江へと進軍していたのである。
信長は前後を敵に挟まれ、絶対絶命の危機にあったが、なぜか家康に対しては「加勢無用」と強がっていたという。さすがの信長も年に3度目の出陣要請は気が引けたのであろうか。
「援軍要請に応じるべきか?それとも断るべきか?」
家康は悩んだ末に、将軍・義昭の要請に応じて1万5,000の兵を率いて、信長のもとに参陣した。
「加勢は無用」と言っていた信長も「当年三度の援軍に感謝する」と家康の参陣にとても感謝したと伝わっている。
家康は度重なる出陣要請に応じることで、信長と将軍・義昭の信頼を勝ち得ることになった。
しかもこの参陣後、家康はもう一つの大きな決断を下している。
それは、越後の上杉謙信との同盟締結であった。
これは、今川領を二分した武田信玄との同盟を破棄し、敵対することを意味した。
こんな大胆な決断ができたのは、この年、3度に渡る将軍・義昭の戦いに加勢したことで、信認・支持を得たことが大きく影響していると考えられる。
当然、家康のこの行動に信玄は大激怒し、両者の直接衝突は避けられないものとなった。
この決断は、家康にとって大きなターニングポイントとなる。
おわりに
元亀元年は家康にとって、本拠地を移しながら3度に渡って遠征(出陣)し、その戦いのどれもが命からがらの激戦という非常に過酷な年であった。
この年の3度の遠征で、徳川軍(三河家臣団)の結束は強くなり、かなり精強な軍になったのではないかと思われる。
しかしこの後、武田軍と正面から激突した三方ヶ原の戦いで完敗したことから、いかに信玄率いる武田軍が強かったかということになる。
この戦いは家康の生涯で唯一の敗戦となったが、この経験を踏まえてさらに精強となった三河武士たちは、天下への階段を登っていくことになる。
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