督姫とは
督姫(とくひめ)とは、徳川家康と側室・西郡局との間に生まれた次女である。
実母・西郡局は「どうする家康」では北香那が演じたお葉という女性であり、家康の初めての側室として登場している。
関連記事 : 家康の側室・お葉(北香那が演じる)は史実ではどんな女性だった? 【どうする家康】
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/ieyasu/64549/
督姫は正室として北条氏直に嫁ぎ、2人の娘を儲け、氏直が亡くなった後には池田輝政に嫁いで5男2女を儲け、最終的に9人の子どもを産んだ。
今回は、天下人・家康の娘として絶大な影響力を発揮し、「肝っ玉母さん」と言われた家康の次女・督姫の波乱万丈な生涯について解説する。
出自
督姫の生年については永禄8年(1565年)説と天正3年(1575年)説がある。
実母・西郡局の父は柏原城主・鵜殿氏に仕えた加藤氏だという説があり、鵜殿長忠の娘(※養女)という身分で家康の側室となった。
北条氏直の正室
天正10年(1582年)の「本能寺の変」で家康の同盟者・織田信長が横死し、甲斐国や信濃国が無主状態となると、家康と北条氏政・氏直による領土争いが起こった。(天正壬午の乱)
当時の徳川家・北条家を比較すると、国力面や兵の動員数においては北条家の方が上回っていたが、黒駒の戦いでの勝利や信濃豪族の取り込みなどで、徳川家が有利という状況であった。
このまま争いを続けることは得策ではないと考えた両者は、旧織田領の甲斐国と信濃国を徳川家が、上野国を北条家が治めることを互いに認めて和睦した。その和睦条件として天正11年(1583年)8月に家康の次女・督姫が北条氏直の正室として嫁いだのである。
督姫の祖母は亡くなった今川義元の妹にあたり、昔から北条家は今川家と婚姻を繰り返していたために、督姫は徳川家の人質としてではなく、北条家の一員として素直に受け入れられたという。
政略結婚ではあったが、氏直と督姫の間には2人の娘が生まれ、夫婦仲も良かったと言われている。
しかしその後、豊臣秀吉の上洛命令を受けた北条氏政・氏直親子は上洛を引き延ばした。
氏直の義父となった家康も北条親子を説得しようとしたが、特に氏政が秀吉に臣従することを最後まで拒んだために、天正18年(1590年)秀吉は諸大名に小田原征伐を命じたのである。
小田原城は戦国時代最強の要塞であったが、約20万を超える軍勢に北条氏政・氏直親子は降伏し、氏直は義父・家康の助命嘆願によって高野山に流罪となり、氏政は自害となった。
流罪となったことで、一時父・家康のもとに戻った督姫だったが、秀吉が翌年に氏直を赦免し、河内国1万石を与えたことで督姫は氏直のもとに赴いた。
しかし氏直は北条家敗北の精神的ショックから立ち直ることができず、その後病没してしまった。
これを機に家康のもとに戻った督姫だが、文禄2年(1593年)に娘の摩尼姫(まにひめ)を亡くしてしまう。
督姫は、夫・氏直と娘・摩尼姫を短期間で亡くすという悲劇が続いたが、天下人となった秀吉の命で2回目の結婚をすることになるのである。
池田輝政の継室
その相手は、かつて織田信長の重臣で、後に秀吉に仕えた池田恒興の次男・池田輝政だった。
池田輝政は、小牧・長久手の戦いで父・恒興と兄・元助が討死にしたために池田家の当主となり、東三河15万2,000石の吉田城主となっていた。
父と兄を家康に殺された輝政からすれば、家康は父と兄の仇である。その娘を娶るなど輝政の心情は計り知れないが「秀吉公の命令ならば仕方がない」と、この婚姻を受けたという。
実は輝政には正室として中川清秀の娘・糸姫がいたのだが、長男・利隆を産んだ後に産後の肥立ち(出血が止まらなくなり)が悪く、実家の中川家に帰って療養をしていた。
結局、輝政は糸姫と離縁して、文禄3年(1594年)に督姫が継室として嫁いだのである。
この時、督姫は北条家伝来の「酒呑童子絵巻(しゅてんどうじえまき)」と「後三年合戦戦絵詞(ごさんねんかっせんえことば)」を持参したという。
婚姻後に輝政と督姫は、離縁した糸姫との間に生まれた長男・利隆の正室に、北条氏直と督姫の間に生まれた娘・万姫を嫁がせるために許嫁としたが、万姫は慶長7年(1602年)に病気で亡くなってしまった。
督姫は氏直との間に生まれた2人の娘を亡くしてしまったが、夫・輝政との仲は非常に良く、何と5男2女に恵まれたのである。
大出世した夫
天下人・秀吉が亡くなると、輝政は絶大な権勢を誇る家康の娘婿として「関ヶ原の戦い」に東軍として参加して活躍した。その武功によって播磨国姫路52万石の領主となり大出世したのである。
初代・姫路藩主となり、官位は右近衛少将となった。徳川一門以外の大名で少将以上の任官は、福島正則に次ぐ出来事だった。
慶長16年(1611年)二条城での家康と豊臣秀頼の会見にも輝政は同席し、翌年には正三位参議に任じられた。
徳川政権下において外様大名が参議に任じられたのは輝政が初めてのことであり、督姫との間に生まれた5人の息子たちにも大禄が与えられた。
池田家一族は石高で100万石となり、輝政は「西国将軍・西国の太守」と呼ばれ、松平姓を賜り「松平播磨宰相」と呼ばれるまでになったという。
池田家は、督姫のおかげで繁栄を誇ったと言っても過言ではないだろう。
ある時、徳川時代から督姫に仕えていた老女が、輝政に「御当家の繁栄は御輿入れと御威光によるものだ」と言ったという。
その時、輝政はその老女を叱り飛ばしたが、後で老女を呼んで「我が家の繁栄はそなたの言う通り。しかし女は褒めればつけあがるから妻の前では決して言うな」と頼んだという逸話がある。
大出世をした輝政は、督姫をとても大事に扱ったという。
輝政は慶長17年(1612年)に中風という脳血管障害を患ったが、一時は回復し、駿府の家康や江戸の将軍・秀忠に謁見した。しかし翌年の慶長18年(1613年)に50歳で亡くなった。
家督は糸姫との間に生まれた長男・利隆が継いだ。
肝っ玉母さん
天下人・家康の娘である督姫は、輝政との間に生まれた5男2女のために幕府を動かして奔走したという。
岡山城主だった小早川秀秋が亡くなると、督姫は輝政との間に生まれた第1子・忠継をわずか5歳で岡山城主にし、輝政の嫡男・利隆の執政代行とした。
第2子・忠雄はわずか9歳で淡路国6万石の城主に、第3子・輝澄は6歳で松平姓を、第4子・政綱は7歳で松平姓を父・家康から賜った。
実は督姫が嫁ぐ前に、輝政には糸姫や側室との間に嫡男・利隆をはじめとして政虎・輝高・利政という4人の男子がいた。
督姫は嫡男を利隆にしたが、次男には自分が生んだ忠継、三男は忠雄、四男は輝澄、五男は政綱、六男は輝興とし、本来次男である政虎を七男、三男にあたる輝高を八男、四男にあたる利政治を九男としたのである。
督姫は父・家康の威光を最大限に利用し、糸姫との間に生まれた利隆以外は自分が生んだ息子たちを優遇したのだ。
この督姫の行動の要因となったのは、先に嫁いだ北条家の悲しい末路を目の当たりにしたことが大きいと言われている。
慶長20年(1614年)督姫は、父・家康と会うために京都の二条城で滞在した時に疱瘡にかかって死去した。享年41または51だったとされている。
父・家康の死後、2代将軍・秀忠は幕府の改革を断行した。
池田利隆が元和2年(1616年)に死去して光政が跡を継いだが、幼少を理由に元和3年(1617年)に岡山藩主から因幡鳥取藩32万5,000石に減移封となった。
それでも外様大名としてはかなりの高禄であったのは、督姫の力が大きかったからだと言われている。
おわりに
徳川家康の次女として生まれた督姫は、北条氏直と池田輝政に嫁ぎ、戦国大名の妻として波乱万丈な人生を送った。
天下人になった父・家康の威光を最大限利用し、自分が生んだ男子を幼少でも岡山藩主や松平姓を賜るようにした才覚は、戦国時代を生き抜いたまさに「肝っ玉母さん」であった。
記事タイトルの『超あげまん』って、アリなのか?!
あなたが投稿してから1度も草の実堂編集部がコメント書かないのはこの記事を書いたライターさんが1度も超あげまんって本文で書いていないでしょうが?
ネット記事はある意味読まれてなんぼですわ?ライターは書いた記事のタイトルを編集部にお任せが原則、あげまんって駄目なら伊丹映画の「あげまん」は駄目ですか?全国に流通してますわ?ネット記事は読まれてナンボ、この位大目にみても一ファンとしていいと思いますよ。だって本文読んでくれました。家康の次女のこと知ってた?
前の草の実堂ファンの1人さん、あなたは違うのよ!一番最初に「超あげまん」って投稿した人は毎日毎日これに対する反論・同意・編集部の意見を聞きたくていわば挑発さ!
この人はどうなったか?毎日この記事をチェックするでしょうが!それが編集部の狙いですがな。ファン1人目何してくれてんねん?いらんことすんな、編集部はプロやぞ。
当然、長女・亀姫はタイミングを見て登場するんでしょう?
まさかの次女から登場、長女・亀姫とだんな奥平信昌はドラマに出た後に記載するんでしょう!
だって現代版・走れメロスの逸話は最高ですものね。さすがは草の実堂差。