徳川家康(演:松本潤)の生涯における三大危機と言えば(1)三河一向一揆、(2)三方ヶ原合戦、そして(3)神君伊賀越え。
神君伊賀越えとは、天正10年(1582年)6月2日、京都で本能寺の変が起こったことを知った家康が、外遊先の堺から自国の三河を目指した逃避行のことです。
果たして家康は何とか敵中を生還するのですが、そこには多くの者たちの助けがありました。
というわけで今回は家康の伊賀越えを助けた多羅尾光俊(たらお みつとし)を紹介。果たして彼はどんな人物だったのでしょうか。
窮地の家康を救い、勝軍地蔵を献上
多羅尾光俊は、永正11年(1514年)に近江国甲賀郡信楽荘小川(滋賀県甲賀市)の国人・多羅尾光吉(みつよし。左京進、和泉守)と池田教正女(いけだ のりまさのむすめ)の子として誕生しました。
通称は四郎兵衛(しろうひょうゑ/しろべゑ)または四郎右衛門(しろうゑもん)、他にも左京進(さきょうのしん)の官職を自称していたそうです。
元は守護大名の六角(ろっかく)氏に仕えていましたが、織田信長(演:岡田准一)が近江国へ勢力をのばすとこれに鞍替え、先祖代々の所領を安堵されたといいます。
やがて室町幕臣・伊勢貞孝(いせ さだたか。伊勢守)の養女を妻に迎え、天文21年(1552年)には嫡男の多羅尾光太(みつもと)を授かりました。
【多羅尾光俊の子供たち】
- 長女・神山佐渡(かみやま さど)妻
- 長男・多羅尾光當(みつまさ。勢藤次)……病弱のため家督を継げず。
- 次男・多羅尾光太(みつもと。彦一、久右衛門、左京進)
- 三男・多羅尾光雅(みつのり。作兵衛、久八郎)
- 四男・多羅尾伊兵衛(いへゑ。実名不詳、作兵衛=光雅と同一人物か?)
- 五男・山口光広(やまぐち みつひろ。主膳、藤左衛門。山口甚助長政へ養子入り)
- 六男・多羅尾光時(みつとき。孫兵衛)
一女六男、子供だけで七人の大所帯ですね。もし母親が違うなら、更に側室なども加わったことでしょう。
さて、時は流れて天正10年(1582年)。本能寺の変を知った家康一行が三河を目指して逃亡中との報せを耳にします。
「父上。徳川殿をお迎えしましょう!」
家康の支援を主張したのは、光俊の五男・山口光広。家康を先導している長谷川秀一(はせがわ ひでかず)と親交があったためです。
「よし、さっそくお迎え申そう」
そうと決まれば善は急げ、多羅尾一家は家康ご一行を出迎えて手厚くもてなし、道中の安全と武運を願って日ごろ大切に拝んできた勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)を献上しました。
「これは心強い。身に余る歓迎、心より感謝いたす」
「もったいなきお言葉にございまする」
この勝軍地蔵は後に江戸の愛宕山圓福寺(あたごやま えんぷくじ。東京都港区)にお祀りされ、令和の現代までご本尊様として伝わっています。
残りの道中は多羅尾光雅と山口光広に200の兵を与えて家康たちを護衛させ、ぶじ伊勢国白子(三重県鈴鹿市)まで送り届けました。
「さぁ、ここまで来ればもう大丈夫ですぞ」
「かたじけない。この恩義は決して忘れぬぞ」
家康から褒美として国行の太刀と、時服(じふく。衣替え費用の名目)として黄金や駿馬を賜わりました。
また天正12年(1584年)3月23日付で山城・近江の両国に所領を賜り、一族は大いに栄えたということです。
秀次事件で改易、蟄居
●光俊
四郎兵衛 四郎右衛門 入道號道賀 母は池田丹後守教正が女。
織田右府に属し、舊領近江国甲賀郡信楽の小川に住す。天正十年東照宮和泉国境の地を御遊覧のとき、六月二日明智光秀叛逆して右府生害あるよしきこしめされ、たゞちに光秀を征伐あるべしと京師に御馬をすゝめらるゝといへども、途中にして長臣等しゐてこれをいさめたてまつりしかば、すでに台駕を旋したまふべきにいたる。このときにあたり海道筋はことゞゝく敵地となるにより、長谷川秀一を郷導として大和路より河内、山城等所々の山川をへて漸く近江路におもむかせたふ。こゝに田原の住人山口藤左衛門光広は光俊が五男にして秀一も舊好あるにより、彼宅に入御ならしむるのところ、光広飛札を乞てことのよしを父光俊が許につぐ。光俊男光太とともにすみやかにむかへたてまつり、山田村にをいてはじめて拝謁し、それより信楽の居宅にいらせたまふ。光俊一族等とともに甲賀の士を率ゐてこれを警衛し、その夜御膳をたてまつり、種々こゝろをつくして守護せしかば、御前にめされ、懇の仰をかうぶる。このとき光俊年ごろ尊敬せし勝軍地蔵の霊像を献ず。今江戸愛宕山圓福寺の本尊これなり。すでにして帰路におもむかせたまふのときも、三男九八郎光雅、五男光広等に従者五十人、をよび甲賀の士百五十余人をそへて伊賀路を郷導し、伊勢国白子の浜までしたがひたてまつらしむ。のち御使もてさきの勤労を賞せられ、来国行の御刀及び時服、黄金、馬等をたまひ、十二年三月二十三日山城近江両国のうちにをいて、采地をたまふべきむね御判物を下さる。其後豊臣太閤につかへ、関白秀次事あるのとき、光俊が一家ことゞゝく改易せられ、信楽に蟄居す。慶長十四年二月四日死す。年九十六。法名道賀。近江国小川の大光寺に葬る。妻は伊勢伊勢守貞孝が養女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第九百四十六 藤原氏(支流)多羅尾
その後、羽柴秀吉(演:ムロツヨシ。豊臣秀吉)に仕えることになった多羅尾光俊。
羽柴秀次(ひでつぐ。秀吉の甥)に孫娘(光太の長女)を嫁がせ、その配下として活躍しました。
しかし秀次が謀叛の咎によって切腹させられると連帯責任で改易。所領を全没収されてしまいます(孫娘は処刑)。
故郷の甲賀郡信楽に蟄居した光俊は、慶長14年(1609年)2月4日に96歳で世を去りました。
ちなみに父の光吉は91歳、嫡男の光太は光俊と同じく96歳まで生きており、どうやら長寿の家系だったようです。
終わりに
以上、徳川家康の逃避行「神君伊賀越え」を助けた多羅尾光俊の生涯をたどってきました。
嫡男の光太は家康に仕え、子孫たちも代々活躍したのでした。
●光太(みつもと)
彦一 久右衛門 左京進 母は貞孝が養女。
天正十年六月東照宮伊賀路を過らせたまふのとき、父と共に御駕を迎へたてまつり、のち豊臣太閤の勘気をうけ、父と共に信楽に蟄居す。慶長元年めされて東照宮に仕へたてまつり、月俸二百口を賜ひ、のち弟久八郎光雅が采地を割て、近江国甲賀郡のうち千五百石の地をたまふ。このときさきにたまひし月俸はおさめらる。五年上杉景勝御征伐のときしたがひたてまつり、下野国小山に至り、七月二十九日采地の御判物を下さる。九月関原の役に供奉し、其後御代官となり、大坂両度の御陣に従ひたてまつり、寛永六年致仕し、正保四年正月二十一日死す。年九十六。法名超雲。信楽の浄顕寺に葬る。妻は竹内下総守某が女、後妻は北条家の臣山角豊前守某が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第九百四十六 藤原氏(支流)多羅尾
果たして「どうする家康」に多羅尾一族は登場するのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第五輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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