どうする家康

瀬名(築山殿)を自害に追い込んだ武田勝頼の哀れな最期とは?

築山殿と信康の信念を貫いた最期

瀬名(築山殿)を自害に追い込んだ武田勝頼の哀れな最期とは?

画像 : 築山殿と松平信康 public domain

先日(7月2日)放送された「どうする家康」で、築山殿(演:有村架純)と信康(演:細田佳央太)は悲しみの最期を遂げました。

ドラマのなかで築山殿は、複数の国が同盟を結び、自由に貿易を行う国家構想を模索します。

しかし、この計画は挫折してしまいます。築山殿の謀を、織田信長(演:岡田准一)にバラすよう武田勝頼(演:眞栄田郷敦)が指示したからです。

すっかりと悪役になってしまった勝頼。

ドラマ終盤では、今まで武田家のスパイとして活躍した、千代(演:古川琴音)も勝頼から離反するようなシーンがありました。

信玄の後継者ではなかった勝頼

元亀4年4月12日、京都への上洛を目指した武田信玄(演:阿部寛)は、遠征途中に病死します。このあと信玄の家督を継いだのが、息子の武田勝頼です。

瀬名(築山殿)を自害に追い込んだ武田勝頼の哀れな最期とは?

画像 : 武田勝頼(1546 – 1582)の肖像画 public domain

しかし勝頼の名前を見ると少し違和感を感じます。「」という通字がないからです。

「信虎、信玄、義信…」。歴代の武田家には必ず入っている「信」が、勝頼にはありません。この名前が意味することは「もともと勝頼は、信玄の後継者ではなかった」という事実です。

信玄の後継者は嫡男であった義信でした。しかし駿河国(今川家)との同盟継続を主張するなど、信玄とたびたび意見が合致しなかったため、義信は監禁・死亡してしまいます。

義信がいなくなったため、いわば仕方なく勝頼が後継者として浮かび上がります。そして勝頼から生まれた息子には「信勝」という名前が与えられます。そのため「勝頼はつなぎ役に過ぎない」というのが、信玄の遺言だったそうです。

父である信玄に認められず、そして武田家を滅亡させてしまった武田勝頼。

今回の記事では、勝頼の悲しい人生を振り返りたいと思います。

父を超えたい勝頼

父(信玄)に認められなかった、と苦しむ勝頼。彼が没頭したことは、父の達成できなかった偉業を実現することでした。

その目標になったのが、家康の領土(遠江国)の最前線に位置する高天神城です。

信玄も一度は攻めましたが、戦略的にあまり重要ではなかったため、早々にあきらめています。しかし勝頼は高天神城の攻略にこだわり続けたのです。

そして天正2年(1574)、とうとう数年がかりで攻め落とすことに成功します。

勢いに乗った勝頼は、織田信長にも戦いを挑みます。天正3年(1575)の「長篠の戦い」です。

信長は馬防柵で固めた陣地に、大量の鉄砲を配備して武田家に対抗します。この策略に飲み込まれた勝頼は、信玄が育てた優秀な部下を数多く失ってしまいました。

この敗北によって、武田家は滅亡へと転げ落ちるのです。

上杉家のお家騒動に手を出す勝頼

天正5年(1577年)、勝頼は北条氏政(演:駿河太郎)の妹を妻とします。劣勢の状況を打開するため、北条氏と同盟を結ぶためです。

そして翌年(天正6年)には、越後国の上杉謙信が急死します。越後国では上杉謙信の養子である上杉景勝(かげかつ)と、北条氏政の実弟である上杉景虎(かげとら)のあいだで、後継者争いが起こります。いわゆる「御館(おたて)の乱」です。

この後継者争いに勝頼は介入します。初期の段階では北条氏政との関係もあり、氏政の実弟でもある景虎を支持しました。

もし上手くいけば「上杉・北条・武田」という大同盟が形成されるため、勝頼からすれば千載一遇のチャンスです。

瀬名(築山殿)を自害に追い込んだ武田勝頼の哀れな最期とは?

画像:「上杉・北条・武田」の同盟が結成されれば「織田・徳川」の脅威に public domain

しかし、景勝が膨大な金と領土の割譲を提示してきたため、勝頼は景勝への支持に変更したのです。このとき景勝は「あなた(勝頼)の家臣になります」と言ったとされています。

このとき勝頼の心を動かしたのは、景勝の「家臣になります」という言葉でしょう。往年のライバルとして、武田家と上杉家は激しい戦いを繰り広げてきました。上杉家が武田家に屈服した瞬間とも言えます。あの信玄ですら達成できなかった偉業です。

勝頼は「父を超えた」とエクスタシーを感じたかもしれません。

せっかくのチャンスを失った勝頼

しかし、この判断が間違っていました。北条氏との同盟が崩壊したからです。

上杉家の後継者争いは勝頼が鞍替えしたことで、景勝の勝利に終わります。しかし、勝頼に裏切られた北条氏政は激怒し、武田氏との同盟を破棄してしまいます。そして、なんと信長と同盟を結んだのです。勝頼はせっかくのチャンスを失い、3人(信長、家康、氏政)を敵に回してしまいます。

天正10年(1582)、甲斐国は織田・徳川・北条の連合軍に攻め込まれます。さらに穴山梅雪など、武田家の家臣からも裏切りを受けたのです。

天目山(山梨県甲府市)に逃げ込んだ勝頼は、北条夫人、息子の信勝と共に自害しました。このとき37歳でした。

これにより武田の正嫡は滅亡しました。

画像:天目山に逃げ込む勝頼 public domain

武田家は…

絶滅したと思われた武田家ですが、生来から盲目のため出家していた信玄の次男・龍宝の孫が生き残っていました。本来ならば僧侶は妻を持てないのですが、龍宝は例外だったようです。

龍宝は殺されてしまいますが、江戸幕府の判断によって、孫の信道は殺されることなく伊豆の流罪で済みました。信道は伊豆大島で亡くなりますが、その子どもに信正がいました。

信正も伊豆に幽閉されていましたが、寛文3年(1663)、ようやく恩赦があり江戸に戻ります。信正は70歳になっていました。

この信正を引き取ったのが武田家の遺臣である内藤帯刀です。帯刀は武田家の血を残すために、17歳になる自分の娘を信正の妻にしました。歳の差はなんと53歳です。そして男の子が生まれています。

その子孫たちが旗本として採用され、のちに高家となっています。この高家・武田家の子孫は現在も続いています。

参考文献:井沢元彦『英傑の日本史 風林火山編』KADOKAWA、2010年11月

 

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村上俊樹

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