前編では、家康が「終活」として天皇や宗教勢力、外様大名を封じ込めるために発布した各種の法度について解説した。
後編では、「将軍の後継者問題」と「家康の人生最後の決断」について掘り下げていきたい。
将軍の後継者問題
家康は、京都での法令発布を終えた2か月後の10月、江戸城にいた。
その理由は、竹千代(後の家光)の乳母・お福(後の春日局)から、次の将軍に関する重大な報告を受けていたからだ。
それは、秀忠とその正室・お江が「病弱な長男・竹千代を後継ぎからはずし、快活な次男・国松を次の後継者にしようとしている」という報告であり、お福は殺される覚悟を持って直に家康に伝えに来たのだ。
この報告を受けた家康は、江戸城において秀忠とお江の目の前で、竹千代・国松と面会した。
その時、家康は竹千代を自分の側に座らせた。
国松が竹千代に並ぼうとすると「それは駄目だ」と、国松に下がるように指示したのだ。
これは「年長の竹千代が後継者で、国松は竹千代を支える立場である」ということを分からせようとしたのである。
今までの戦国の習わしでは、利発さや人物としての力量も後継者候補の重要な指針であったが、家康は「長幼の序」という秩序を乱す危険性が大きいと考えた。
兄弟の中で優秀な者を選ぶ「能力主義」は一つの考え方ではあるが、それがもとで権力闘争や内紛が起こった例は多くあり、家康はそれを危惧したのである。
元和2年(1616年)元旦、江戸城の黒書院で、秀忠は将軍への挨拶を竹千代に最初にさせた。
家康の意を感じ取った秀忠は、家臣たちにも「後継者は竹千代である」と示したのである。
しかし家康には、もう一つ頭を悩ます大問題があったのである。
松平忠輝問題
『徳川実記』によると、元和元年(1615年)9月に、京都から駿府に戻っていた家康に大事件があったことが書かれている。
9月10日、家康は自分の六男・松平忠輝を勘当していたのだ。
松平忠輝は、将軍・秀忠の13歳年下の弟で、存命している家康の息子の中では秀忠に次ぐ2番目の年長者であり、越後高田75万石の大大名であった。
当然、徳川一門では将軍・秀忠に次ぐ存在であった忠輝だが、なぜ家康は忠輝を勘当にしたのだろうか?
大坂の陣での失態
それは大坂夏の陣でのことである。
なんと忠輝は、自分の軍を追い抜こうとした将軍・秀忠の家臣2人を討ち取り、それを報告していなかったのである。
更に肝心な夏の陣の到着も遅れてしまい、軍の最後尾で高みの見物をしていたというのだ。
将軍をないがしろにしたうえに、父・家康も真田幸村(信繁)に追い詰められて危機一髪だった状況で、忠輝は何の成果も挙げていなかった。
さらに戦後、家康・秀忠父子が行った朝廷への戦勝報告の随行を命じられていたにもかかわらず、なんと忠輝はこれを仮病で欠席し、将軍・秀忠の許可なしに勝手に国許へ帰ってしまうという有様であった。
その報告を受けた家康は激怒し、忠輝を勘当にしたと考えられている。
しかし、当時は「行軍中の追い抜きは無礼にあたる」として切り捨て御免が許されていた。
本当に家康は上記のことが原因で、自分の息子を勘当処分にしたのだろうか?
実は、忠輝の勘当にはもう一つの理由があったとされている。
伊達政宗との関係
それは忠輝の舅(しゅうと)となっていた伊達政宗の存在である。
関ヶ原の戦いの前に、家康は政宗に近づこうとして政宗の長女・五郎八姫と忠輝を政略結婚させていた。
政宗は政略結婚であっても忠輝を可愛がり、高田城を普請する時には政宗自らが駆けつけ世話を焼くほどの入れ込みようだったという。
「もし、忠輝と政宗が連携すれば、大きな脅威となりかねない」という心配が家康にはあったのだ。
忠輝は徳川家の中では将軍・秀忠を脅かすほどの75万石の大大名、政宗は62万石だったが農地改良に成功したことで実質100万石を越えていたとされている。
しかも、政宗は慶長18年(1613年)スペインやメキシコとの貿易を行うための使節(慶長遣欧使節)を派遣していた。スペインは貿易の条件としてキリスト教の布教の許可を要求し、政宗は領内の布教を容認していたという。
当時、キリスト教禁止令を進めていた家康や幕府から見れば、政宗の振る舞いは徳川の方針に従わない危険なものであった。
しかも、慶長遣欧使節を案内していたソテロ神父は、ヨーロッパ各地で「家康亡き後は政宗が日本の皇帝になる」と言いふらしていたのだ。
徳川を脅かしかねない政宗、その政宗に支えられ将軍・秀忠をないがしろにする弟・忠輝は、徳川一門の最大のリスクになっていたのだ。
忠輝と政宗の謀反の噂
元和2年(1616年)正月、江戸では実際に謀反の噂が流れていた。
細川忠興が1月16日に国許の息子に宛てた手紙には「政宗のことについて色々な噂がある。根も葉もないことか誠なのか、よく分からないが、内々に陣の用意をしておくように」と書かれていたという。
「勘当された忠輝が、政宗と共に挙兵する」という噂は次第に広がり、全国に広がっていったのである。
一方、家康には死期が迫っていた。1月21日に鷹狩りをした家康は、夕食に鯛の天ぷらを食べた後に発病したのである。(※現在では死因は胃がんで、鯛の天ぷらは原因ではないと言う説が有力である)
すぐに駿府城に戻った家康だが、病状は一進一退を繰り返し、秀忠を始めとする徳川一門が次々と駿府城に駆けつける中、謀反の噂になっている忠輝も駿府に向かっていた。
忠輝は「何とか面会したい」と何度も嘆願を繰り返したが、家康は面会を許さなかった。
家康の選んだ決断
後年、政宗が側近に語った資料の中に、当時の家康の決断(選択)が分かる記述が残っている。
2代将軍・秀忠が死の淵にある時、政宗にこう言ったという。
「昔、権現様(家康公)が病気で倒れていた時に、私に江戸に帰って仙台への陣を用意しておくようにとおっしゃった」
政宗自身も後年、「家康公が病気と聞いて駿府に向かおうとしていたら、将軍・秀忠公が仙台攻めの用意をしているという知らせが次々と入って来た」と語っている。
さらに「もし、戦となれば幕府軍相手に勝てる訳はない」と、実は震え上がっていたという。
つまり、家康が下した人生最後の決断は以下である。
家康は政宗討伐を選んだように見せて、その時に側室・お勝の方から早馬で政宗のもとに文を届けさせている。
その内容は「一刻も早く家康公と対面しないと為にならない」というものであった。
2月22日、駿府に到着した政宗は、病床の家康に会ってこう聞かされた。
「仙台攻めの理由は謀反の疑いである」、さらに「ある人物から、政宗が豊臣方の残党と手を組んで謀反をするという密告があった」
その人物はなんと松平忠輝であった。
つまり家康は「忠輝からの密告で仙台攻めを行おうとしていた」と政宗に伝えたのである。
そして家康は「もし、政宗が本当に謀反する気があれば、文を読んでも決してわしに会いに来ないだろう、と思ったのだ」と政宗に言った。
しかし、政宗がすぐに駿府に駆けつけたことで、謀反の疑いはないと確信したという。
その後、毎日見舞いに訪れる政宗に、家康は将軍・秀忠の後見さえも命じている。
しかし実のところ、忠輝が政宗の謀反を密告したという証拠はない。
確かなことは、家康の言葉を聞いた政宗はその後、忠輝と縁を切って二度と支えようとしなかったことである。
家康の決断は、二人の間を裂き、逆に政宗を忠輝ではなく秀忠を支える側に回らせたということである。
さすがは天下人・家康である。誰も考えつかないアイデアで二人(忠輝と政宗)の関係を完全に離したのだ。
3月19日、家康は自分の金銀(遺産)を末の息子三人、九・十・十一男に分け与えた。
遺産の総額は194万1,600両、現在の価値にするとおよそ1,940億円となる。
4月2日、崇伝や天海ら僧侶のブレーンを呼んで、亡くなった後の埋葬や位牌などを細かく指示している。
4月17日、ついに家康は死去、享年75であった。
家康の死から3か月後の7月、秀忠は忠輝を改易にして伊勢国朝熊に蟄居を命じた。
忠輝は伊勢で10年間蟄居の後、信濃国の諏訪に預け替えとなった。
おわりに
25歳で伊勢に蟄居させられた忠輝は、10年後の35歳の時に現在の長野県諏訪市に預け替えとなり、天和3年(1683年)92歳で亡くなるまでこの場所で過ごした。
忠輝が亡くなった時は、五代将軍・綱吉の時代になっていた。
本当にあの時の密告者は忠輝だったのだろうか?今でもその真偽のほどは謎である。
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参考 : 『徳川実記』他
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