大正&昭和

『淫らな伯爵夫人』昭和騒然の不倫スキャンダル 吉井徳子の「不良華族事件」とは

日本における不倫の記録は古く、平安時代には「見て見ぬふり」が慣習とされていました。

江戸時代に入ると、夫のある女性の不倫は重罪とされ、斬首や磔といった極刑が定められていました。もっとも、実際には追放や寺預けで済むことも多く、必ずしも厳罰一辺倒ではありませんでした。

明治時代になると、旧刑法に「姦通罪」が設けられ、戦後の昭和22年に廃止されるまで存続しました。
とはいえ、男性が妾を持つことは社会的に容認される風潮が強く、男性の処罰は甘かったといわれています。

一方で、上流階級の女性の不倫は、家の名誉を著しく傷つけるためにご法度とされていました。

ところが昭和8年(1933年)、吉井徳子伯爵夫人による前代未聞の不倫スキャンダル「不良華族事件」が世間を騒がせることになります。

画像:吉井徳子 1947年(昭和22年)public domain

心の通わぬ夫婦関係から「淫らな伯爵夫人」へ

吉井徳子は、大正天皇の従兄弟で貴族院議員の、柳原義光伯爵の娘でした。

徳子は1921年、22歳の頃、14歳年上の36歳の吉井勇と結婚します。

しかし、吉井家は同じ伯爵家同士とはいっても、新華族であり、家の歴史や家風には大きな違いがあったようで、夫婦仲はよくありませんでした。

画像:吉井勇 『アサヒグラフ』1955年新年号 public domain

実際、勇は後に「夫婦二人の性格があまりにもかけ離れている」と語り、公家の娘である徳子に親しみを抱けなかったと述懐しています。

なお、吉井勇は「いのち短し、恋せよ、おとめ」の歌詞で知られる『ゴンドラの唄』の作詞者としても著名です。

徳子は寂しさもあったのでしょうか……やがて、「夜遊び」に耽溺していったのでした。

「色魔の幸ちゃん」に女性を斡旋する徳子

徳子は、上流階級の遊び好きなマダムたちと共に、次第にダンスホール通いに夢中になっていきました。

画像:昭和のダンスホール。東京四谷にあった国華ダンスホール 1920年代末 大東京写真帖 『大東京写真帖』1930 public domain

そして「不良華族事件」が起こることになります。

1933年(昭和8年)11月13日、赤坂溜池町にあった東京屈指の豪華な内装を誇る「フロリダ」ダンスホールの主任舞踏教師・小島幸吉が警視庁に検挙されたことから、事件は始まりました。

女性たちから圧倒的に人気があったダンス講師の小島は「日本一の好男子」と自称し、「色魔の幸ちゃん」などと呼ばれ、常に数十人のマダムに取り囲まれているほどのモテモテぶりでした。

そんな小島が関係した女性は、女優、ダンサー、両家の子女、有閑マダム、大病院の院長夫人など多彩でした。

その華やかすぎる女性関係が「姦通罪」に抵触し得るものとして官憲に目をつけられ、ついに検挙されたのです。

不倫相手を繋ぎ止めるために女性を斡旋

当時、この『不良華族事件』を報じた東京朝日新聞(現在の朝日新聞東京本社)のタイトルは、かなり扇情的なものでした。

『女性群を翻弄して悪魔は踊る フロリダ舞踏教師の検挙で暴露された情痴地獄』

画像:東京朝日新聞 – 朝日新聞社「東京朝日新聞(1933年11月15日版)」より public domain

まるで、映画のタイトルのようです。

取り調べに対し、小島は「自分に女性客を紹介したのは、歌人である伯爵吉井勇の妻・徳子だ」と供述しました。

実は、徳子は愛人であった小島との関係を繋ぎ止めるために、友人の有閑マダムを次々と彼に斡旋していたのです。

その結果、徳子も警視庁の取り調べを受け、一晩だけ留置場に勾留されましたが、姦通罪で起訴されることはありませんでした。

もっとも、徳子にとって小島は特別な存在ではなく、数多い遊興の相手の一人にすぎなかったようです。

日本郵船の社長の息子、人気俳優、人気作家とも

日本郵船の社長で男爵の近藤廉平を父にもつ三男・近藤廉治も、徳子の恋人の一人でした。

彼は潤沢な資金を背景に、派手に遊んでいたプレイボーイでした。

このことは当時、皇族や華族の行状を監督していた宮内庁の宗秩寮(そうちつりょう)によって明るみに出ました。

宗秩寮総裁であった木戸幸一侯爵の日記によると、二人は高級料亭で頻繁に会い、人気俳優や人気作家など複数の男性とも親密な関係を結んでいたとされています。

画像:料亭 イメージ CC BY 3.0

また、徳子は取り調べを受けている際に、夫・勇と親しい文士仲間の賭博を暴露し、事件は不倫問題から「文士賭博」へと広がっていきました。

徳子は取り調べの際、特別に恥ずかしがるような様子もなく、近藤廉治との関係も話した上で、以下のように語ったといいます。

「夫・吉井は30歳くらいまでにあらゆる愛欲遊戯をしつくし、ガソリンをつかひ果たした自動車みたいにダメだった」

「わたしは人の作った道徳をそのまま守っても仕方ないと思っています。自分でよいと思ったことをやれば一番よいと、好きなようにしているままです」

その後、徳子には華族としての礼遇停止、勇には「監督不行届き」として訓戒処分が下されました。

勇は新聞上で「隠居」の決意を表明し、高知県の山里に隠棲して徳子とも離婚することになりました。

叔母、姪ともに一大スキャンダルの主人公だった

さて、『不良華族事件』は、昭和恐慌まっただなかの世の中で起こりました。

そのため、上流階級マダムたちの情事に世間も呆れ、大きな批判を巻き起こしました。

画像:大正・昭和時代の歌人・柳原白蓮 public domain

ちなみに、徳子の叔母で大正天皇の従妹にあたる柳原白蓮も、1921年(大正10年)に夫との不仲から社会運動家の宮崎龍介と駆け落ちし、いわゆる「白蓮事件」という大スキャンダルを引き起こしています。

その姪である徳子も、昭和初期に「不良華族事件」を起こしました。

白蓮も徳子も、当時の女性が「夫に従順であること」を当然とされた時代にあって、自由闊達な生き方を選んだ点で共通していたのです。

柳原白蓮の波瀾万丈な生涯については、また別の機会に改めてご紹介いたします。

参考:
明治・大正・昭和華族事件録 千田稔 著
華族 歴史大事典 浅見雅男 著
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

桃配伝子

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アパレルのデザイナー・デザイン事務所を経てフリーランスとして独立。旅行・歴史・神社仏閣・民間伝承&風俗・ファッション・料理・アウトドアなどの記事を書いているライターです。
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