
画像:教皇シルヴェステル2世 public domain
西洋の歴史において、中世はしばしば「暗闇の時代」と語られてきました。
しかしその闇の中でも、ひとりの人物が発する知の光が静かに瞬いていたのをご存じでしょうか。
その知の光の源こそ、ゲルベルト・オーリャック、後の教皇シルヴェステル2世です。
10世紀末から11世紀初頭という政治と宗教が激しく揺れる時代にあって、彼は学問を携えて権力の中心へと歩み、その知性からやがて「魔術師」とさえ噂される存在になったのです。
今回は、学者として出発し、やがて教皇の座にまで上りつめたシルヴェステル2世の歩みを見ていきます。
修道院に芽生えた知への渇き

画像 : オーリヤックにあるシルウェステル2世のブロンズ像 public domain
ゲルベルトは946年頃、フランス南西部のオーヴェルニュ地方に生まれました。
出自の詳細は伝わっていませんが、貴族ではなく、庶民的な環境で育ったとみられています。
幼くして修道院に入れられた彼は、祈りと労働を繰り返す日々の中で、一冊の書物にふと魅了されました。
それは聖書でも賛歌でもなく、計算や星に関する素朴な学習書でした。
数字を並べると世界が秩序をもって動き始める。星の運行を知れば季節が予測できる。そんな発見が幼い彼の胸を満たしました。
当時の修道院で扱われる学問は限られていましたが、ゲルベルトは僧たちの隙を見つけては羊皮紙に線を引き、夜空の星を見上げては観察記録を取ったと伝えられています。
やがてその才能は、周囲の目にとまるようになりました。
967年、修道院を訪れたバルセロナ伯ボレル2世の一行と出会ったことが、ゲルベルトの運命を大きく動かしました。
彼はボレル伯に伴われ、キリスト教世界とイスラム世界が接するカタルーニャ地方へと赴くことになります。
この地は当時、西ヨーロッパでは珍しい学問の交差点でした。
イベリア半島を通じて伝えられた数学や天文学の知識が集まり、ラテン語に翻訳された学術書が修道院や教会を通じて共有されていたのです。
ゲルベルトはここで天体を観測し、時間や暦を計算するための、当時の高精度科学器具であるアストロラーベに出会います。

画像:9世紀のアストロラーベ wiki c Khalili Collections
彼は従来のローマ数字では難しかった新しい計算方法に触れ、少なからぬ手応えを味わったことでしょう。
後に取り組んだ計算教育の刷新や、十進的な計算法の導入は、こうした経験に深く根ざしていました。
宮廷をも魅了した学才
970年頃、ローマで神聖ローマ皇帝オットー1世と教皇ヨハネス13世に面会したゲルベルトは、その学識によって皇帝の強い関心を引きました。

画像:オットー1世 public domain
宮廷に迎えられ、若き皇帝オットー2世の教育に関わる存在としても知られるようになります。
学問を愛する皇帝一族にとって、彼は貴重な教育者でした。
算術や天文学に加え、音楽理論の授業を行い、音階や和声を数で説明する彼の講義に、若い貴族たちは目を輝かせたといわれています。
こうして宮廷でも嘱望の高かったゲルベルトでしたが、引く手は多く、今度はフランスの学問の中心地として名高いランス大聖堂学校の学頭に任じられました。
ここで彼は教育制度の改革に取り組み、手で操作して四則演算を行う道具、計算用アバカスの改良に着手します。
また、幾何学の教材を整備し、生徒たちに体系的に数理を教えました。
当時としては異例ともいえる教育実践でしたが、ゲルベルトは名声を求めるよりも、学問の基盤を整えることに力を注いでいました。
しかし、学識を備えた人物であっても、政治の渦中に置かれることは避けられませんでした。
991年、ランス大司教位をめぐる争いに関わったゲルベルトは、政治的対立の中で追い込まれ、その地位を失います。
理屈や正論だけでは、政治の流れを変えることはできなかったのです。
この挫折は、ゲルベルトにとって転機となります。
知を蓄えるだけではなく、それを実際の統治や判断に生かさなければならないという決意が、ここで明確になったのです。
「悪魔」と畏怖された教皇
しかし、ゲルベルトの学識は、彼を政治の世界から完全に遠ざけることを許しませんでした。
オットー2世の治世で知られる存在となった彼は、その死後、後を継いだオットー3世の側近として、再び表舞台に呼び戻されます。

画像 : オットー3世と家臣団 public domain
学問を尊ぶ若き皇帝は、助言者として確かな知性を備えた人物を求めており、その条件に合致したのがゲルベルトでした。
998年、彼はラヴェンナ大司教に任じられ、翌999年には教皇シルヴェステル2世として選出されます。
※以降はシルヴェステル2世と記します。
学者出身の教皇という存在は、当時としては異例でした。
そこには新しい時代への期待が集まる一方で、学問に通じた人物への得体の知れぬ不安も、ローマの空気として広がっていきます。
彼の天文学や暦法への関心も、そうした不安を呼び起こした要因の一つでした。
教会の高所に観測用の器具を設けたとする記録が残っており、天文知識を実務に用いようとする姿勢がうかがえます。
学問的には特別なことではありませんでしたが、当時の人々にとっては十分に異質な光景だったのでしょう。
数字を操り、天の動きを読み取る教皇。
その姿は次第に人々の想像力を刺激し、やがて「魔術」や「悪魔」と結びついた噂を生むことになります。
彼の周囲には魔術や悪魔の噂が絶えず、死後さらに膨らんでいったのです。

画像:教皇シルヴェステル2世と悪魔 public domain
噂の影と遺された知の灯
1003年5月12日、シルヴェステル2世はローマで静かに生涯を閉じ、その亡骸はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に葬られました。

画像:サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 wiki c NikonZ7II
激しい病に襲われたと伝わる晩年の彼は、周囲を煩わせまいと努め、最期の祈りを静かに捧げたとされています。
後に悪魔との契約や断末魔の叫びといった逸話が語られましたが、彼の知性に畏れを抱いた人々が作り上げたものであり、史実として伝わる最期はむしろ穏やかなものでした。
それでも彼の死後「墓所が鳴動するとローマに災厄が訪れる」といった怪談が広まり、噂は繰り返し語られることになります。
学識ある人物が理解されないまま恐れられ、やがて伝説の中で姿を変えていく例は、彼に限ったことではありません。
そうした恐れや噂とは別に、シルヴェステル2世が残した知の営みは、静かに受け継がれていきました。
計算教育の整備や数理への関心は、後世の学びに影響を与え、天文学に向けられた姿勢もまた、12世紀以降の学問復興へとつながる流れの一部を形づくっています。
学ぶことに人生を託し、数と星を通じて世界を理解しようとしたシルヴェステル2世。
その歩みは、知が時に恐れを招きながらも、人を前へ進ませてきたことを静かに語り続けています。
参考 :
Brown, N. M. (2011). The abacus and the cross: The story of the pope who brought the light of science to the Dark Ages. Doubleday.
文 / 草の実堂編集部
























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