ジョニー・デップ主演の映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」や、東京ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」で有名になったカリブ海の海賊たち。
しかし、なぜカリブ海には海賊が多かったのだろうか?
時代背景
※赤く塗られた部分がスパニッシュ・メイン
カリブ海は、1492年にクリストファー・コロンブスが新世界を発見して以来、ヨーロッパの貿易と植民地化の中心になった。
1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約により、大西洋沖にあるカーボベルデ諸島から2.193 km西南北方向線(子午線)で、ヨーロッパ以外の世界をスペインとポルトガルの間で分割することとなる。この時代、海の覇権を巡り争っていたのは、主にスペインとポルトガルだったからだ。
そこでスペイン帝国は、カリブ海周辺大陸沿岸のフロリダ半島からメキシコ、中米に南米北岸を開拓して交易のための町を造った。カリブ海を囲むように形成された大陸沿岸のスペイン開拓地をイギリスは「スパニッシュ・メイン」と呼んだ。16世紀から18世紀にかけて、スパニッシュ・メインから、金銀、宝石、香辛料、木材、毛皮、その他の莫大な財宝がヨーロッパに向けて運び出されたのである。
さらに、16世紀、スペインはヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)のサカテカスやペルーのポトシ(実際には現在のボリビアにある)にあった鉱山から驚くべき量の銀塊を掘りだした。これに目をつけたのが海賊たちである。彼らは、本国へ銀などを運ぶ輸送船を襲い略奪を始めたのだった。
海賊たちの誕生
※バーソロミュー・ロバーツ、ベナンのウィダーで、背景は自船と捕獲した商船
海賊は、海戦で使われた元水夫が多かった。英語で海賊を意味する「バッカニア (buccaneer)」という名称の由来は、フランス語の”boucan”(火の上にかざされた木枠)の上の”boucanier”(肉を燻すという意味)といわれている。肉を燻す煙を出して、島の漂流者が沖を行く船を交易のために近寄らせたように、海賊が船を捕まえることができたからだった。
当初の海賊たちは、植民地を支配する権力者によって住んでいた島を追われたので、海上で他の船舶を襲撃し続けるという新しい生き方をするしかなかった。このように船を陸に引き寄せて、自船で一気に襲撃していたのである。こうして、ヨーロッパの商船を攻撃し(特にカリブ海からヨーロッパに向かうスペイン船隊)、その貴重な荷物を捕獲するという、船乗りにとって魅力はあるが、法に触れる機会を作りだした。
以下はウェールズの海賊からの引用であり、18世紀カリブ海の海賊に対する動機を示している。
“まっとうな仕事は、食い物は貧しいし、賃金は安くて仕事はきつい。この仕事(海賊)はお宝はたんまり手に入るし、楽しくて簡単、そして自由で力がある。こんなうまい仕事、やらずにいられる奴がいるのかい? 最悪の時は縛り首にもなるだろうが、「人生は太く短く」が俺のモットーだ。海賊船長バーソロミュー・ロバーツ”
このような行為は16世紀に始まった。
しかし、驚くべきことに海賊行為が「合法」とされたこともある。そこには、国家の利権が絡んでいた。
私掠船
※16世紀に海賊の餌食にされた主要貿易ルート: スペインの宝物艦隊は1568年からマニラ・ガレオン船でカリブ海とスペインのセビリアを結び(白線)、ポルトガルのインド艦隊は1498年からポルトガルとインドのゴアを結んだ(青線)
海賊行為は、例えばフランス王フランソワ1世(在位1515年-1547年)の時代には、植民地権力者によって「合法」とされた。これは、大西洋やインド洋で領海政策を確立したライバル国の海上貿易を弱めることを期待したものだった。この合法的な海賊行為は私掠と呼ばれ、私掠を行う船を私掠船と呼んだ。
1520年から1560年、フランスの私掠船だけでスペイン王国と新世界における広大なスペイン帝国の商業に戦いを挑んだ。後にはイングランドやオランダの私掠船も加わり、最早、大国の代理紛争のような様相を呈していたのである。
これと闘うのは常に危険が伴った。そのため、1560年代、スペインは護送船団方式を採用した。スペインの宝物艦隊とも呼ばれるこの船団の目的は、行きには兵士およびヨーロッパで製造された商品を新世界にあるスペイン植民地に運び、帰りは1年間に採掘された価値ある銀をヨーロッパに運ぶことだった。船団で行動するため、海賊たちも手が出しにくなった。
海賊 たちの黄金期
※フェリペ4世 (スペイン王)
17世紀後期と18世紀初期(特に1716年から1726年)はカリブ海の「海賊の黄金時代」と考えられることが多く、海賊の港は大西洋とインド洋およびそれらを取り巻く地域で急速に成長した。さらにこの期間に実際に活動した海賊は約2,400人いたとされる。新世界におけるスペイン帝国の軍事力は、フェリペ4世の跡をカルロス2世(在位1665年-1700年)が嗣ぎ、4歳でハプスブルク・スペイン最後の国王になった時に衰退を始めた。
その頃には新世界(アメリカ)にも、イングランド、フランス、オランダが入植を始めており、1660年までにそれぞれの領有権の中で新世界植民地強国となっている。しかし、それまでにヨーロッパ本土では各国の戦争が続き、カリブ海における各国のパワーバランスも崩れていた。17世紀後期までに、カリブ海のスペイン領にある大きな町は繁栄を始め、スペイン本国も緩りと断続的な回復を始めたが、イングランドの支配権は、イングランド自体がヨーロッパで強国にのし上がっているときだったので、カリブ海でも拡大を続ける。
しかし、その影にも海賊や私掠船の存在があり、時には海賊を植民地の防衛と母国の当面の敵に対する戦闘に使った国もあった。
海賊たちは消える
※ヘンリー・モーガン
やがて、カリブ海の海賊も終わりの時代を迎えることになる。
西ヨーロッパ諸国の海軍が拡張され、その任務は海賊との戦いにまで広げられた。ヨーロッパ海域から海賊を駆逐すると、18世紀にはカリブ海に、1710年までに西アフリカと北アメリカにまで及び、1720年代にはインド洋でも海賊が働くには難しい場所になった。
さらに、1720年以後、ヨーロッパの軍隊や海軍、特にイギリス海軍が長期の実経験を積むために、海賊に対抗して広い範囲で活動したので、カリブ海では古典的な意味での海賊はごく希になった。イギリス海軍艦船は飽くことなく海賊船を追求し、戦闘になれば常に勝利するようになる。
こうなっては、海賊も衰退への道と進むしかない。
しかし、1713年にスペイン継承戦争が終わってから1720年頃まで、海賊行為が一時的に復活したときがあった。戦後は水兵が余ったので、賃金や労働条件が下がった状態に合わせるために、多くの失業した水兵が海賊になった。ウォルト・ディズニーの映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の時代設定がこの時代である。
この時代の有名な海賊は、黄金時代の完全に違法な生き残りであり、その選択肢は直ぐに引退するか、捕まえられることに限られていた。17世紀で最も破壊的な海賊船長の1人だったヘンリー・モーガンが、その私掠行為でイギリス王室からナイトに除せられ、ジャマイカの副総督に指名されたことと比べれば対照的である。
その後もカリブ海の海賊は19世紀まで小規模ながら隆盛を繰り返したが、1830年代までに艦船は蒸気力駆動に転換されたので、カリブ海における帆船時代と古典的な海賊の概念は終わったのだった。
最後に
最初は、単なる犯罪者集団としか思っていなかった海賊だが、時代が進むにつれ、私掠船などに姿を変えることで、各国に軍事的・政治的にも利用されたことがわかった。
その過程は、ここにまとめたものよりさらに複雑だが、カリブ海に海賊が多かった理由はハッキリした。
多くの財宝、資源、交易品が絶えず行き交う航路がカリブ海に集中していたからなのだ。
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