エンヤやケルティックウーマンに代表されるケルト音楽は日本でも人気があり、ケルト神話の英雄クー・フーリンは日本で作られたゲームにも登場している。
現在では「ケルト=アイルランド周辺」というイメージが強いケルト人の歴史について調べてみた。
ケルト人という表現について
ケルト人は単一民族ではなく、インド・ヨーロッパ語族に属するケルト語系の言語を使っていた人々の総称である。
「ケルト」という言葉は「野蛮人、異邦人」という意味を持つ古代ギリシャ語の「Keltoi」に由来する。
ゲール語やウェールズ語、ブルターニュ語などのケルト語系言語は現存しており、現在ではこれらの言葉が残るアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、フランスのブルターニュの人々(イギリスのコーンウォールが含まれることもある)が、ケルト人と呼ばれている。
しかし、ケルト語系言語を日常的に使用している人間は少なく、これらの言語は再生・保護運動が行われている。
ケルト人とハルシュタット文化
ケルト人は青銅器時代には既に中央ヨーロッパに定住していたと考えられている。
ケルト人は青銅器時代後期(紀元前12世紀以降)から鉄器時代(紀元前8〜6世紀)の中央ヨーロッパで、フランスから東欧にまたがる「ハルシュタット文化」を発展させた。
この名前は19世紀にオーストリアのハルシュタットで、数多くの地下墓地や副葬品が発掘されたことに由来する。
ハルシュタットで発見された墓地のうち、紀元前8〜7世紀の戦士のものと思われる墓には、儀礼用の斧や長剣が納められていた。紀元前6世紀の墓には、飾りのついた短剣が納められている。女性の墓からは青銅製の装飾品や生活用品が発掘されている。
ケルト語の「halen」や「hall」「halle」は塩を意味する言葉で、紀元前8〜6世紀のハルシュタットには岩塩の採掘場が作られていた。
塩は当時の人々にとって単なる調味料ではなく、保存料でもあり、交易品でもあった。紀元前600年ごろにオーストリアザルツブルク州ハライン郡に岩塩坑が開かれ、交易の中心から外れたハルシュタットは次第に衰退した。
フランスのマルメスから出土した紀元前9〜7世紀の青銅の胸甲や、ル=モワドンから出土した紀元前6世紀のペンダントは、ハルシュタット文化の産物である。
ドイツのホッホドルフで発見された古墳には、ハルシュタット文明後期のケルト人の王が葬られている。
紀元前540年〜紀元前520年に、装飾品を身に着けた状態で埋葬された遺体の足元には、蜂蜜酒を入れた青銅の大釜が安置されていた。この釜はギリシャで製造されたものだと考えられている。
ケルト人はギリシャ人やエトルリア人と交易を行い、岩塩やスズ、毛皮や黄金を輸出していた。紀元前500年ごろには、ギリシャからワインがもたらされ、当時の酒器からはワインの痕跡が発見されている。
ラ・テーヌ文化への移行
ハルシュタット文化に続いて中央ヨーロッパに発展した鉄器時代後期(紀元前450年から紀元前1世紀)の文化は、スイスのヌーシャテル湖畔にある遺跡の名から「ラ・テーヌ文化」と呼ばれている。
フランスのヴィクスで発見された墓には、紀元前480年ごろに死亡した女性と推定されるケルト人女性が埋葬されていた。
車輪を外した戦車に安置された女性の傍らには巨大なクラテール(ワインを薄める容器)や、ギリシャやエトルリアで作られた酒器が置かれていた。
女性が身に着けていた純金のトルクは、X線調査によって20個以上の部品を組み合わせて作られたことが判明している。
ケルト人の伝統である馬の像が飾られたこのトルクは、ハルシュタット文化から発展したラ・テーヌ文化を代表するもので、金属加工技術はエトルリアやギリシャの影響を受けている。
テムズ川のバタシーから発見された儀礼用の盾は、紀元前350年〜紀元前50年ごろのものと推定されている。
ラ・テーヌ文化の装飾品や武器はグレートブリテン島やアイルランド島、イベリア半島からも出土している。
ケルト人 の大移動
紀元前5〜4世紀にかけて、ケルト人はヨーロッパ各地への大移動を開始し、北イタリアに移住したケルト人の一派は、ガリア人と呼ばれた。
ガリア人の伝説によれば、移住は人口問題を解決するためのもので、行先は神託によって定められたという。
紀元前390年ごろ(紀元前387年という説もある)には、ガリア人の一派であるセノネス族がアッリアの戦いで共和制ローマに勝利したが、後に反撃を受け、長くローマと対立した。
紀元前58年、スエビ族(ゲルマン人の一派)の侵入を受けたヘルウェティイ族(ガリア人の一派)は、フランス南西部への移住を試みる。これがきっかけでガリア人はカエサルの率いるローマと対決することとなった。
ガリア連合軍が紀元前52年のアレシアの戦いに敗れたことにより、ガリア人の居住地はローマの属州となった。
カエサルはガリア人との戦いや彼らの文化を「ガリア戦記」に記録している。
紀元前335年には、ケルト人の使節がマケドニア王国のアレクサンドロス3世と会見した。王はケルト人を同盟者として扱ったが、後に追放した。紀元前323年に王が病死すると、ハンガリーやスロバキアのケルト人はバルカン半島へと進出した。
紀元前279年にはブレンヌス(人名または役職名という説もある)に率いられたケルト人がギリシャを攻撃し、パルナッソス山の麓に位置するデルフォイ(太陽神アポロンの聖地)に侵入した。
しかし、紀元前277年にはマケドニア王国の攻撃を受け、ケルト人のギリシャ侵攻は失敗した。
紀元前3世紀に小アジアを支配したケルト人はガラティア人と呼ばれた。ガラティア王国は紀元前64年にローマの属州となったが、4世紀にガラティア語が使用された記録が残っている。
グレートブリテン島にケルト人が移住したのは、紀元前5世紀ごろのことと考えられている。ケルト系ブリトン人と呼ばれるウェールズやコーンウォールに移住し、彼らの言葉であるブリトン語はケルト語系言語(ウェールズ語やコーンウォール語、ブルターニュ語など)のルーツとなった。
ケルト人がアイルランドに移住したのは、紀元前350年ごろのことと考えられている。
ローマ化を免れた土地にはケルトの文化が残った
カエサル率いるローマ軍は、紀元前55年〜54年にかけてグレートブリテン島の南部に侵攻した。
西暦43年にはローマ帝国皇帝クラエディウスが遠征を行い、グレートブリテン島南部はローマの属州ブリタニアとなった。ローマ帝国の支配は410年まで続き、ブリタニアはローマ文化の影響を受けた。
だが、ローマ人がヒルベニアと呼んだ島、現在のアイルランドにはローマの支配は及ばなかった。ケルトの文化はアイルランドに残り、5世紀に伝来したキリスト教と結びついた。「ケルズの書」に代表される装飾写本には、ケルトの文様や金銀細工の技術が用いられている。
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