496年の西ローマ帝国崩壊の後、これまでローマ帝国一国で支配されていたイタリア半島は、東から来たゲルマン民族によって支配され、統一された国家がない分裂状態となった。
その後イタリアはルネサンスの時代を経て、ヴェネチアなどの都市国家、中部に教皇領、南部には両シチリア王国がそれぞれ成立。さらにフランスやオーストリア帝国などのヨーロッパの列強がたびたび介入し、統一国家が成立する状態はほとんどなかった。
今回はそんなイタリアが、どのようにして統一していったのかを見ていこう。
カルボナリの運動
イタリアに統一の転機が訪れたのは19世紀前半。イタリア北部はナポレオンの遠征によって支配されていき、フランス革命以来の理念や自由の意義が広まっていった。
その後ナポレオンは失脚し、ウィーン体制と呼ばれる旧来の体制に戻そうと躍起になっていくのだが、イタリア半島ではナポレオンが広めた概念によってイタリアを統一するリソルジメントという統一運動が各地で巻き起こっていった。
そしてその運動はカルボナリ(炭焼き党 カルボナーラと語源は一緒)と呼ばれる秘密結社によって、1821年にナポリで反乱を起こすまでに至った。
この反乱はあっけなく鎮圧されてしまうのだが、この運動はとどまること無く、1831年のフランス七月革命の時にはイタリアの反乱が起こり、1848年にはマッチィーニ率いる青年イタリアによってローマ共和国が成立するのだが、両方とも列強の介入により失敗。
イタリア半島ではたびたび統一運動が巻き起こるが、成功しないという大変もどかしい状態となっていたのである。
サルデーニャ王国によるイタリア統一
イタリア半島において統一運動が巻き起こる中、サルデーニャ王国の宰相カヴールがサルデーニャ島中心の統一運動を展開していくことになっていった。
まずカヴールは自身の巧みな外交力によって隣国の大国フランスとの関係を樹立。後ろ盾を得てオーストリアとの戦争を開始して統一戦争を始めていった。
オーストリアとの戦争は北イタリアの一部分だけの領有化に留まったが、乗りに乗ったサルデーニャ王国はフランスにニースを割譲する代わりに、中部イタリアの占領を取り付けこの地を領有化。
さらに、南部では千人隊を引き連れていたガリバルディがシチリアを占領し、さらにはナポリを領有化してその地をサルデーニャ国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世に献上。サルデーニャ王国は教皇領を除く全てのイタリア半島を統一し、1861年にサルデーニャ王国はイタリア王国に改称。
さらに普仏戦争においてフランスが負けたのを機に残りの教皇領を占領して、遂にイタリアの統一は完遂されたのだった。
教皇問題と未回収のイタリア
こうしてイタリアは統一を果たし、イタリア王国が成立したのだが、まだイタリアからすれば気がかりなことが残された。それが未回収のイタリアと教皇問題である。
未回収のイタリアはトリエステと南チロルが統一されてもオーストリア帝国の領土となり、両国が対立した問題だったのだが、普墺戦争においてオーストリア帝国が負けてもイタリアはこの土地を奪い取ることに失敗してしまい、この問題は第一次世界大戦まで持ち越しとなった。
一方の教皇問題はというと、ローマ教皇は教皇領を失った後、教皇庁があるバチカンに逃げ込み、ローマ市内に教皇の国があるまさかの異常事態となってしまった。(ローマ問題)
この異様な事態は1929年、ムッソリーニによってに結ばれたラテラン条約において、教皇と和解しバチカン市国の成立をイタリアが承認するまで残ることとなった。
最後に
イタリアの統一というのは、ローマ帝国以降統一国家とならなかったイタリアに強い影響を与え、これから先はフランスやイギリスを追うように近代化と植民地支配を進めていくことになる。
さらにその頃ドイツでは普仏戦争の勝利によって1871年にドイツ帝国が成立し、さらに極東に目を向けるとドイツ帝国成立と同じ年に日本では廃藩置県が断行され、近代化された中央集権国家が成立した。
同じ時期に国として統一された三国が、やがて枢軸国として第二次世界大戦で同盟を結ぶことになる。こういった巡り合わせは歴史の面白いところである。
炭焼き党は「ガルポナリ」ではなく、「カルボナリ」です。
綴りはCarbonariで、いかなるイタリア語方言もフランス語やラテン語でもガルポナリとは発音しません。
ご指摘ありがとうございます。
訂正させていただきましたm(_ _)m