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京都五山の送り火、8月16日じゃないのに夜空に燃えた大文字

京都五山の送り火、8月16日じゃないのに夜空に燃えた大文字

現在はお盆の送り火として、8月16日にだけ灯される京都五山の大文字や妙法・舟形。

しかし過去には、意外な理由で点火されたこともありました。

琵琶湖疎水通水式

明治23年(1890年)4月8日、疎水通水を祝う夜会は北垣国道京都府知事主催の元、全市的祝賀行事として開催されました。

多くの慶祝行事のひとつとして、東山如意ヶ嶽(通称大文字山)の大文字にも点火され、赤々と燃える火が京都市の近代化を祝ったのです。

明治天皇の「疎水の工事竣るを告ぐ。吏民協戮の功洵に嘉すべし」との勅語も発せられました。

琵琶湖疏水は、都を東京へ奪われすっかり意気消沈した京都市を活性化させるべく、北垣京都府知事の大号令の元、官民挙げて行われた大事業でした。

滋賀県大津市三保ヶ崎で取水した琵琶湖の水を、県境の逢坂山の下をトンネルでくぐらせ、京都市内へ引き込んだものです。この水を利用して水力発電が開始され、その電力で日本初の営業用電車(京都電気鉄道、後の京都市電)を走らせました。また上水道水として、現在でも京都市民の日常生活に供されています。

ロシア皇太子入洛

明治24年(1891年)5月9日、ロシア皇太子とギリシャの皇子を迎えて、京都市中は大いに賑わっていました。当時ヨーロッパ列強に追いつけ追い越せ中の日本とは、比べ物にならない強勢大国ロシアの皇太子を迎えて、歓迎行事に手抜かりの無いよう市幹部はピリピリ。

この時も歓迎行事の一環として、五山の火が灯されました。同日夕刻京都入りした皇太子は、午後8時頃ホテル二層楼(2階バルコニー)から夜空に燃え上がる火を楽しまれました。

ホテルの門前には大アーチが作られ、庭の泉水には数百尾の錦鯉が放たれます。翌日は御所での競べ馬や撃剣会、遠矢なども催される歓迎ぶり。

しかしこの後滋賀県に入った皇太子一向に、巡査津田三蔵が切りつける「大津事件」が起こったのです。

東郷提督歓迎

※東郷平八郎 wikiより

明治38年(1905年)5月27日、東郷平八郎提督率いる連合艦隊が、当時世界屈指と言われたロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃破。敵艦撃沈19隻、捕獲5隻、連合艦隊側の損害は水雷艇3隻沈没のみ、主力艦隊には損傷無しと一方的な勝利です。

3月の奉天大会戦の勝利に次ぐ戦果とあって、日本国内は沸き返りました。各地で祝賀式・旗行列・提灯行列が相次ぎ、留まるところを知りません。同年9月日露講和条約が締結され、日露戦争は終わりました。もう少し長引いていたら、日本は持ちこたえられなかったでしょうね。

11月国民的英雄となった東郷提督を迎え、京都市は市民祝賀会を開きました。25日午前6時提督一行京都着、官庁・会社は一斉休業となり、商店の店頭には幔幕が張り巡らされる賑々しさ。この時の祝賀行事の一つとして、大文字が点火されました。

当時の新聞に「夜に入りて各方面の余興大会、大文字、イルミネーションの点火あり
と報道されています。余興大会やイルミネーションと同列の扱いですね。また別の記事では「大文字は京の商標なり、紋所なり」とも述べています。

どの程度当時の世人の声を反映した記事かはわかりませんが、大文字は京都のシンボルではあっても、あまり宗教的な意味は意識されていなかったようです。結構気軽に、祝賀行事の賑やかしに点火していたのですね。

現在では先祖の御霊を送る“お盆の送り火”として、神聖視とまでは言いませんが、そう気安く点火しようと言う発想はありません。

白い大文字

昭和16年(1941年)12月8日、日本は米英両国に宣戦布告し、太平洋戦争が始まります。昭和17年、国内はまだ平和で五山の送り火も例年通り点火されました。しかし翌18年、本格化した連合軍の反撃に日本軍は後退を余儀なくされ、一気に戦時色が強まります。

大文字の送り火もこのあおりを受けて、中止が決定されます。これは灯火管制の意味合いよりも、「この非常時に」と言う世間の空気を受けての措置でした。

代わりにと言うわけではありませんが、【白い大文字】が如意ケ嶽の山腹に現われました。

これは8月16日の早朝、京都市民2千余名が白シャツを着て如意ケ嶽に登り、大の字の火床の位置に並んで大文字を形作ったものです。参加したのは麓の錦林・浄楽連合町内会の人々や、地元の国民学校生徒たちでした。

当時国民学校生徒だった方の記憶では、夏休み中朝早く大文字山(如意ケ嶽)に登り、大の字の真ん中で健民体操(今のラジオ体操)を行う学校行事がありました。『早朝鍛錬会』と言い、出席すると参加証にハンコが貰えました。【白い大文字】はその行事に組み込まれた形で実施されたと、記憶していらっしゃいます。

なぜこんなことが行われたのか。その年の春戦死した山本五十六連合艦隊司令長官や、アッツ島で玉砕した戦士たち、並びにこれまでの戦いで戦死した英霊の御霊を送るためとされています。夜空に赤く炎を灯すことが出来ないのなら、せめて白い大文字で御霊を送りたいとの京都市民の思いでした。翌年昭和19年にもこの白い大文字は続けられました。
しかし昭和20年(1945年)8月16日は終戦の翌日だったので、大文字は点火されることも、白シャツ姿の人々が並ぶこともありませんでした。

昭和21年(1946年)8月16日、京都市文化課と地元保存会協力の元、4年ぶりに京都五山に送り火が復活、大文字・妙法・舟形・左大文字・鳥居の送り火が灯りました。

 

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