
画像 : 釈迦ことゴータマ・シッダールタ public domain
仏教は、釈迦ことゴータマ・シッダールタの教えを基盤とする宗教である。
この世界は苦しみに満ち溢れており、生きとし生ける者すべては、その苦痛から逃れることはできない。
たとえ死んでも幾度となく生まれ変わり、その都度苦しまなければならない。
ゆえに悟りを開き、輪廻転生の輪から外れ、苦しみからの解放を目指すというのが、仏教の基本的な教義である。
仏教が日本に伝来して約1500年が経ち、寺院や年中行事は人々の生活に深く根付いた。
同時に、日常語の中にも仏教の専門用語を起源とする言葉が数多く残されている。
今回は、意外と知られていない仏教由来の言葉を取り上げていきたい。
摩訶不思議

画像 : 般若心経 public domain
「摩訶不思議」という言葉がある。
とてつもなく不思議なことを表す言葉だが、この「摩訶」とは一体何なのか。
摩訶は、サンスクリット語(古代インドの言葉)の「mahā」に漢字を当てたもので、「偉大な」「大いなる」といった意味を持つ言葉である。
かの有名な『般若心経』は、正式には「摩訶般若波羅蜜多心経」と題され、この摩訶は経の持つ崇高さや広大さを示す語として用いられている。
そして「摩訶不思議」の「不思議」もまた、仏教に由来する言葉である。
不思議は元々「不可思議」といい、仏の力や真理は人間の思考や能力では到底測りきれない、という意味を持っていた。
それが次第に「可」の字が省かれ、現代では理解を超えた出来事全般を指す言葉として使われるようになったのである。
なお、不可思議は数の単位としても知られており、10の64乗という途方もない数を表す。
まさしく人間の感覚では到底理解不能な数といえよう。
ごたごた

画像 : 兀庵和尚語録 public domain
「ごたごた」とは、物事が複雑に絡み合い、収拾がつかない様子を表す言葉である。
言い訳や余計な説明を重ねる相手に対し、「ごたごた抜かすな!」などと叱責する際にも用いられる。
この語の由来については諸説あるが、その一つに、鎌倉時代の僧・兀庵普寧(ごったんふねい、1197~1276)に結びつける説がある。
普寧は南宋出身で、来日後は鎌倉の建長寺で住職を務めた人物である。
彼の話は非常に難解であり、弟子たちはその意味を理解するのに頭を悩ませたという。
また、気難しい性格だったのか、他の僧侶との揉め事も絶えなかったそうだ。
こうした人物像と「兀庵」という名が重なり、「ごたごた」という言葉の語源になったとされる。
とはいえ、元々大陸出身である普寧は、来日後に言語の壁に直面していた。
実際、彼の言葉をまとめた『兀庵和尚語録』には「語音未だ通ぜず」とあり、来日当初の普寧が言語の壁に苦しんでいたことがうかがえる。
中国語と日本語の違いが彼の言葉を一層分かりにくく感じさせた可能性は否定できず、そうした印象が後世の連想を呼び、「ごたごた」の語源と結び付けられたのかもしれない。
工夫

画像 : 座禅を組む僧侶 写真AC cc0
「工夫」とは、あれこれと思案し、より良い方法を見つけ出そうとすることである。
「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と言うように、もっともベターな結果を出すための精神論に用いられることも多い工夫であるが、やはりこの言葉も仏教を端に発している。
中国で成立した禅宗は、ひたすら座禅を組むことで自己と向き合い、悟りを目指す仏教の一派である。
禅僧たちは修行そのものを「工夫」と呼び、日々の実践に心身を傾けてきた。
禅宗は鎌倉時代に日本へ伝わり、武士の精神世界をはじめ、茶道や懐石料理など、日本文化の形成にも大きな影響を与えた。
そして、絶えず自らを磨き続ける「工夫」の精神は、日本人の気質とも結び付き、後のものづくり文化や技術発展の土台となっていったのである。
なお、「工夫」と同じ漢字を用いる言葉に工夫(こうふ)がある。
こちらは主に肉体労働者を指す語で、「人夫工手間」と呼ばれた手間賃に由来するとされる。
この語が禅に取り入れられ、工夫(くふう)の思想が生まれたと語られることもあるが俗説と考えられている。
娑婆

画像 : 人によっては、娑婆よりも刑務所の方が生きやすいと考える者もいる public domain
逮捕された暴力団の組長などが、刑期を終えて出所する際に「娑婆に出る」と表現することがある。
この娑婆とは、仏教において私たちが生きるこの世界そのものを指す言葉である。
それが転じて現代では、刑務所や軍隊、閉鎖病棟といった隔絶された環境から見た外の世界、すなわち一般社会を意味するようになった。
娑婆はサンスクリット語の「sahā」に漢字を当てたもので、煩悩と苦しみに満ち、忍耐を求められる厳しい世界を表す語である。
漢訳仏典では「忍土」「堪忍土」などとも訳され、さまざまな経典において、この世は苦に満ちた場所であると強調する文脈で繰り返し用いられてきた。
考えてみれば、人類の社会は決して平穏とは言い難い。戦争や環境問題、食糧不足など、苦しみの種は尽きることがなく、今後も忍耐を求められる状況は続くだろう。
娑婆という言葉が示す世界観は、現代においてもなお、現実味を失っていないのかもしれない。
参考 : 『般若心経』『兀庵和尚語録』
文 / 草の実堂編集部
























この記事へのコメントはありません。