江戸時代

【吉原の遊女の値段】江戸の遊郭で遊ぶにはいくらかかったのか?残酷な価格差

画像:吉原の町並み。大見世から切見世まで、同じ塀の中に女性たちの格差が凝縮されていた。public domain

江戸時代、享保期ごろの吉原遊郭の最上位に立つ太夫と一晩を過ごすには、金一両から一両半ほどが必要でした。

現代の貨幣価値に置き換えれば、およそ15万円ほどと推測されます。

一方、遊郭の片隅にある切見世の局女郎は、約10分で50文から100文(今の感覚で900円から1,800円ほど)で、同じ塀の内側に数十倍の価格差が存在していたのです(※)。

なぜ、これほどの開きがあったのでしょうか。

「高い遊女は美人で、芸も達者だから」という単純な話ではなく、吉原では金額こそが遊女の格を決め、客の遊び方を指定し、遊郭の秩序そのものを形づくっていました。

誰がいくら払い、その金がどこへ消えていくのかを追っていくと、遊郭という構造が浮かび上がってきます。

※江戸時代の貨幣価値を現代に換算する方法には、米価・賃金・物価など複数の基準があり、研究者によって幅があります。また時代や遊女の格によって揚代は変動するため、本記事の金額はあくまで大まかな目安です。

遊女の階級と「揚代」

画像:明治時代の花魁。豪華な衣装に身を包み道中する花魁。その揚代は切見世の百倍以上に達した。public domain

吉原の遊女には厳格な階級が存在し、それぞれに「揚代(あげだい)」と呼ばれる指名料が設定されていました。

開設当初の元吉原(1617〜1656年)では、太夫・格子・端女郎の三段階があり、寛永19年(1642年)の『あづま物語』によれば、太夫の揚代は銀35匁、格子が25匁、端が20匁でした。(※現在の銀価格に単純換算すると、約5万5千円、約4万円、約3万円ほど)

太夫と端の差は約1.75倍になり、この時代はまだ格差が穏やかだったと言えます。

ところが新吉原への移転(1657年)以降、遊女の階級はさらに細かく分かれ、それに応じて揚代の差も大きく開いていきました。
元禄14年(1701年)の記録では太夫の揚代が銀74匁に倍増し、端の遊女は短時間ごとの「切り」の料金で銀5匁・3匁にまで下がっています。

さらに18世紀に入ると「太夫」という位が吉原から消え、代わりに「花魁」が上級遊女の呼び名となっていきました。

江戸中後期ごろの価格帯を、金一両=約10万円とした場合、最上位の呼出昼三が、金一両一分で約12万5千円。
中間層にあたる座敷持は、昼夜通しで金二分、約5万円。
最下位の切見世になると、時間単位で50文から100文、数百円から2千円弱の世界です。

このように最上位の花魁と最下位の切見世のあいだには、文字どおり桁違いの価格差があったのです。

揚代だけでは帰れない、見えない費用の構造

画像 : 吉原 仲之町通りの桜並木 public domain

揚代は吉原で遊ぶ費用の入口に過ぎず、上級遊女と遊ぶには、まず引手茶屋を通す必要があります。

大見世の花魁は、引手茶屋の紹介なしには会えない仕組みでした。

元吉原の時代には、こうした仲介を「揚屋」が担っていました。揚屋は座敷と料理を備えた施設で、客はそこに上がり、遊女が道中してやって来るのを待ちます。

芸者や幇間(太鼓持ち)を呼んで酒を飲み、芸を楽しみながら過ごす「待ちの時間」自体がすでに遊興の一部であり、課金の対象でした。

新吉原以降、揚屋は衰退して引手茶屋がその役割を引き継ぎますが、揚屋との違いがひとつあり、引手茶屋は仲介に特化して、床入りは妓楼で行うようになりました。

ただし、客が複数の場所で金を落とす構造は変わりません。

花魁が道中してやって来れば、付き添いの新造や禿にも心付け(チップ)を渡します。馴染みになるほど渡す相手と金額が増えていくのが、吉原の「当たり前」でした。

さらに「紋日」の存在があります。
正月三が日、五節句、八朔、月見などの大紋日には揚代が通常の倍になり、それ以外にも毎月1日・15日・17日・28日などが紋日に指定され、年間数十日にのぼりました。

紋日は客にとって避けようのない負担ですが、遊女にとっても楽な日ではありませんでした。この日に客がつかなければ、遊女自身が費用を補填しなければならなかったからです。

馴染みになればプレゼントも贈らなくてはならず、季節ごとの衣装や簪(かんざし)は暗黙の義務のようなもので、結局のところ一晩の遊興費は揚代の数倍に膨れ上がるのが常でした。

吉原で遊ぶことは一度の支払いではなく、継続的な出費の連鎖に身を置くことを意味したのです。

三回通わないと始まらない(初会・裏・馴染み)

画像:客待ちをする吉原遊廓の遊女 wiki c Kusakabe Kimbei

吉原の上級遊女には、もうひとつ独特の慣習がありました。

「初めて会った客とはすぐに床を共にしない」という作法です。

初回を「初会」と呼びます。
客は引手茶屋を通じて遊女を指名し、座敷で対面しますが、遊女は客の正面ではなく離れた位置に座り、ほとんど口をきかないこともありました。
料理は出るものの客にとってはただ顔を見るだけで、それでも揚代と諸費用は満額かかります。

二回目が「裏を返す」。
遊女の名前が書かれた木札を裏返すことに由来するとされ、ここでようやく会話が成り立ちはじめます。
しかし床入りには至りません。

三回目が「馴染み」です。
ここで初めて馴染みの客として認められる、というのが吉原でよく知られた建前でした。
呼出昼三の場合、三回分の揚代と諸費用を合わせれば、それだけで数十万円。

これが上級遊女と過ごすための、きわめて高い「入場料」だったのです。

こうした段階を設定するのは「焦らし」が目的ではありません。
高級遊女は恋愛の段取りを演じる存在でもあり、金を払えばすぐに体が買えるという関係とは一線を画していました。
初会で気に入らなければ裏を返さなくてもよく、遊女の側にも客を見定める時間があったのです。

ただし散茶以下の遊女は初回から床入りが普通でしたし、上級遊女でも初会から床を共にする場合もあり、三段階の作法は実態というよりも建前としての色が濃かったという指摘もあります。

画像:座敷での遊興風景。揚代のほかに茶屋代・祝儀・芸者代と、金は何重にも抜かれていく。※イメージ

ルール破ったらどうなるか?浮気と未払いの代償

吉原は疑似恋愛の空間でしたが、ルールを破る者には容赦がありません。

最も嫌われたのは「浮気」です。
馴染みの遊女がいるにも関わらず別の遊女のもとへ通う行為は、廓の秩序を乱すものとされました。
客は秘密にしているつもりでも、遊女同士の情報網はきわめて緊密で、すぐに露見してしまいます。

浮気が発覚した客が帰ろうとすると、大門で新造から禿まで動員した待ち伏せが行われ、妓楼へ連行されます。
そこからは公開の私刑です。裸にされて女物の着物を着せられ、顔に墨を塗られ、髷を切られる。
周囲の人間は笑いながら見物していたといいますから、徹底して恥をかかせるための刑罰でした。

浮気よりさらに重い罪が、遊んだのに金を払わないこと。
この場合は「桶伏せ」という私刑があったと伝えられています。

未払いの客を逆さにした桶に閉じ込め、上に石を載せて出られなくする。
顔だけが見える状態で通りに晒され、食事も排泄も桶の中。身元引受人や知人が代わりに支払うまで解放されません。
誰も払いに来なければ、そのまま晒され続けるのです。

ただし桶伏せはあまりに過酷だったためか、吉原後期にはあまり見られなくなったようです。

値段の裏側にあった遊女たちの真実

画像:吉原細見の紙面。遊女の名前・妓楼・揚代が整然と並ぶが、遊女自身の取り分はどこにも記されていない。public domain

ここまで見てきた金額は、すべて客が支払ったものです。このとき遊女の手元にはいくら残ったのでしょうか。

なんと、ほとんど残りませんでした。

揚代は妓楼の収入であり、遊女は衣装代・食費・化粧代などの名目で妓楼から借金を背負わされています。
客から受け取る祝儀に関しても、妓楼や周囲の人間への分配にほとんどが消えました。

支払われた金は客から妓楼へ、妓楼から遊郭の維持費へと流れ、遊女はその経路を通過するだけの存在だったのです。

「吉原細見(遊女の名前・所属する妓楼・揚代が一覧になった冊子で、毎年改訂された遊郭のガイドブック)」は、外から見れば華やかな格付けの一覧です。

しかし、その値札を貼られていた女性たちに値段を決める権利はなく、当然ながら遊女自身の取り分は記載されていないのです。

参考文献 :
小野武雄『吉原と島原』講談社学術文庫、2002年
堀口茉純『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭』PHP新書、2018年
永井義男『図説 吉原事典』朝日文庫、2015年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

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