265年間続いた江戸時代から明治への移行。はっきりとした線引きはできないが、幕末の出来事の中で大政奉還はターニングポイントとなった歴史的大事件だというのは間違いない。
「幕府の権威失墜で追い込まれた15代将軍・徳川慶喜はやむなく天皇に政権を返上した」これが一般的な見方だが、慶喜はただ仕方なく権力を手放したのだろうか?
大政奉還の裏側にあった幕府の事情を調べてみた。
将軍候補
※徳川慶喜
慶喜が将軍職を継ごうかという時期は、彼にとってまさに逆風の真っ只中だった。
黒船来航を機に、列強各国から開国を迫られた日本。国内に目を向ければ、幕府、朝廷、諸藩の志士たちの思いが複雑に絡み合う有様。もともとは、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく、一度は慶喜を14代将軍に推す声が高まった。しかし、反対派により慶喜を推す一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)には大老となった井伊直弼が裁定し、14代将軍は家茂となった。
このとき慶喜は将軍となる気がなかったのか「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を書いている。
「失敗」が具体的に何を指しているのかは推測するしかないが、彼には感じるものがあったのだろう。
徳川最後の将軍へ
※禁裏御守衛総督時代の慶喜
德川家茂が将軍職を継ぐと、慶喜は上洛し将軍の名代として朝廷との事前交渉に当たった。
文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することになったからである。一連の交渉は不成功に終わったが、慶喜はそのまま京に残り、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。幕府の人間ながら、朝廷に仕えるような役目である。
禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず長州勢と切り結んだ。勤王派で孝明天皇の信頼も厚かったという。
慶応2年(1866年)家茂の後継として慶喜を次期将軍に推す声がふたたび挙がった。慶喜はこれを固辞し、徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、ようやく最後に将軍宣下を受け将軍に就任したのである。
公武合体
※孝明天皇御尊影
逆風の中で将軍となった慶喜が目指したのは、公武合体での体制改革である。
孝明天皇も公武合体派で倒幕の混乱は望んでいない。倒幕派を牽制し、幕府主導で近代化に向けた体制改革を進めていくために、いわば朝廷の要請により将軍に就任した形にして、政治を有利に進めてゆこうという狙いがあった。
嫌々ながらも将軍職を継いだからには、真剣に取り組もうという慶喜の考えである。
まずは、近代的な内閣制度の先駆けとなるような「五局体制」を確立、将軍の名代をフランスに送って万博に参加し、同時に恒常的な外交も始めている。対外政策は、はっきりと開国を指向するようになっていた。
慶喜は矢継ぎ早に改革の手を打つが、倒幕の炎は勢いを増す一方。そこに打開策として浮上したのが大政奉還だった。
大政奉還
※大政奉還図
1867年10月14日、慶喜は朝廷に大政奉還を奏上した。
政権を朝廷に返上したのである。
返すといっても、そもそも幕府が朝廷に大政を「委任」されたという事実はない。天皇が将軍を「任命」する形は取っていたが、徳川家康は自分の実力で最高権力者にのし上がったというのが実態であった。しかし、長きにわたって安定的に国を支配していくには、やはり何らかの正当性が必要になる。
そこから出てきたのが大政委任論であった。
11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の時代に理論化された大政委任論は、当時台頭しつつあった尊王論を牽制するために、天皇(朝廷)自身が大政を将軍(幕府)に委任したものであるから、一度委任した以上は天皇といえども将軍の職任である大政には口出しすることは許されないという姿勢を示したものである。
つまり、天皇でさえ幕府の政策には口出しできないという考え方であり、そのような強大な権力を慶喜は天皇に返上したということになる。
慶喜の思惑と誤算
※二条城・二の丸御殿
実は大政奉還前日の夕刻、慶喜は側近の西周(にしあまね)を二条城に呼んでいる。
西は1862年に幕命でオランダに留学、国際法や政治、経済学を修めていた。登城した西に、慶喜は三権分立やイギリスの議会制度について質問している。政治の表舞台から降りるつもりならそんなことは聞かない。
そこに慶喜の思惑があったのだ。
大政奉還は翌日に受理された。今後の方針や体制が決まるまでは政権を担うよう、朝廷から命じられる。
その10日後、朝廷側の体制がまだ整わないうちに、慶喜はさらに将軍辞退を申し出た。
これには朝廷も困っただろう。そのためその申し出は受理されず、しばらく宙に浮いたままになっていた。政権が朝廷に移り、将軍も不在となれば、薩長などの武力倒幕派の大義名分も霧消する。慶喜は将軍職は返しても、新たな体制の下で政治の舞台に立つことを狙っていたのだ。
しかし、誤算もあった。追い込まれた倒幕派はクーデターを起し、「王政復古の大号令」を発したのである。
これにより、幕府は廃止され、慶喜の政治生命も断たれたのであった。
最後に
慶喜には、鳥羽・伏見の戦い後の「敵前逃亡」の惰弱イメージが定着していたが、政治家としてはなかなかしたたかであり、近代的政治体制を目指すなどとても有能なことがわかった。
事実、長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
そして、慶喜の理解者である孝明天皇は、彼の将軍就任直後に崩御している。もし、孝明天皇が存命であれば、また歴史は変わったかもしれない。
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