交易が発展し、貧富の差が激しくなることで、街には人々が争う光景がそこかしこで見られるようになった。
これを目の当たりにした仏陀は「世界は苦しみに満ちている」ことを実感する。
「人間の苦しみは変わりゆくものに捉われることから起こる」
この最初の悟りにより、仏陀の長い旅路は始まったのだ。
仏教以前の古代宗教
インド古来の宗教「ヒンドゥー教」。
サンスクリットで「インダス川」のことである。仏教が広まるまでは、インドの人々にとって宗教とはヒンドゥー教を意味していた。
今でも春になるとインド各地で行われる「ホーリー祭」は、そうした時代の名残りだ。豊作祈願の祭りであったホーリー祭が、ヒンドゥーの神話と混ざり合い、今では悪魔祓いの祭りへと変化した。悪の神「ホリカ」の人形を神聖な火の中に投げ込み、悪霊を追い返す。小麦の穂を焦がして祈りを捧げるのは、豊作祈願のためだ。
古代インドでは、死者の魂は再び地上へと生まれ変わると信じられていた。ヒンドゥー教における「輪廻転生(りんねてんしょう)」の考えである。さらに2日目には、色粉を塗りつけ合う。
[※色粉だらけになった女性]
時代が流れるにつれ、苦悩に満ちた現世よりも幸福なあの世で過ごしたいという人が増えていった。しかし、あの世で幸せになるためには儀式が必要だと唱える者達がいた。
当時の特権階級「バラモン」の僧侶たちである。
仏陀は異端の存在だった
古代ヒンドゥー教の流れを汲む祭祀を行う司祭たち。
彼らだけが魂を天に送ることができると信じられていた。バラモン教とも呼ばれる彼らの儀式により、魂はあの世で救われるという。しかし、仏陀は清らかな行いにより、現世で苦しみから解放されると考えた。
この新たな考えは、当時としては異端であり、イエス・キリストがユダヤ教社会のなかで神の教えを説いて回ったときと似ている。
ちなみに現在のインドのヒンドゥー教は、当時のバラモン教が仏教やジャイナ教、先住民の土着神などの影響をうけ、進化したものである。
【バラモン教の火の儀式。火に水銀などを流しいれ、死者の魂をあの世に送る】
仏陀は、苦しみの原因を突き止め、それを明らかに指し示すことで、人々に解決の糸口を与えていった。
あるとき、女性が死んだ子を抱え、仏陀にこの子の魂を戻して欲しいと願い出た。仏陀は
「今まで死者を出したことのない家からケシの実を集めて来なさい。そうすれば、魂を戻す薬を作ろう」
と答えたが、そのような家などあるわけがない。女性は死者に悲しむのは自分だけではないことを悟り、仏陀の弟子になったという。
仏陀は、時に相手を突き放し、自分の力で苦しみを克服する道を歩ませたのだ。
寺院の寄進と後援者
仏陀が旅をした2,500年前、彼が旅をしたガンジス川中流域では交易や農業が盛んになり、幹線道路が整備されていた。そうした情勢から商人たちが力を持つようになり、仏陀の考えは商人や街の新興階級の支持を急速に集めるようになる。
インド北部にあったコーサラ国の富豪、スダッタは身寄りのない人々に食事を与え、「給孤独長者」と呼ばれるほど、清らかな商人であった。
その彼が仏陀に寄進したのが、「ジェータヴァーナ僧院」である。だが、その土地はジェータ太子の所有する森である。譲渡を願い出たスダッタに対し、ジェータ太子は土地を金貨で敷き詰めたら譲ろうといい、スダッタは惜しげもなくそれを行い始めた。これに驚いたジェータ太子は、スダッタの後援者となり、そのまま土地を譲るとともに寺院の建設までも援助するようになる。
【※ジェータヴァーナ僧院跡]
完成した寺院は「ジェータ太子の森(ヴァーナ)」から、「ジェータヴァーナ僧院」と名付けられ、中国では「祇陀樹」と訳し、さらに「ジェータ太子の園林にある精舎(寺院)」という意味から「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」と呼ばれるようになった。
そして、ここが仏陀の活動拠点のひとつとなる。
犀の角のように
ジェータヴァーナ僧院には、武士、商人、庶民と社会的地位に関係なく、多くの人々が集うようになった。ここには剃髪することで、どのような身分であっても入ることができたからである。
「人間の価値は生まれや身分ではなく、清らかな行いによって決まる」
と仏陀は述べていた。それはバラモン教の階級制度「カースト制」を否定する考えだ。
仏陀は説いた
「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。犀の角のようにただ独り歩め」
と。犀の角とは、「太い一本の角のような道」と「インドサイが群れないように己もまた独りで」という二重の意味があるとされている。
そして、
「欲望は甘美だが、欲望の対象には憂いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め」
と続けた。都市国家の時代、暴力や欲望で社会が揺れ動くなかで仏陀は「孤独に欲望を避けることが大切である」と唱えたのだった。
仏教の基礎
仏陀の旅は続いた。
彼はたびたび、ガンジス川沿いにあるバラモン教やヒンドゥー教の聖地「ヴァーラーナシー」を訪れている。仏陀の新しい考えはこの街で試されてゆく。なぜなら、仏陀の考えはバラモン教やヒンドゥー教の教えとは相反するものだったからだ。
ガンジス川で身を清めるのは、神と一体化することを祈るためである。しかし、仏教は神による救済の道をとらなかった。今でもこの街には、あの世での幸福を求めてヒンドゥー教徒が集まってくる。ヴァーラーナシーでは、今も昔も神々への信仰が根付いているのだ。
仏陀はこうした「霊魂の不滅を信じる」人々の中で、教えを説き、ヒンドゥー教の教えとの葛藤を繰り返す。
やがて、仏陀は困難な旅の末、山深いラージギルに拠点を置いた。ラージギルは、当時、ガンジス川中流域で最大の都市国家であったマガダ国の首都である。ここで仏陀は、王の支援を受けて多くの寺院を作った。
仏教の経典「法華経」などを説いた「霊鷲山(りょうじゅせん)」には、様々な人が集まり、なかにはバラモン教の僧侶も弟子になったという。
【※霊鷲山の山頂】
この街で、1万人以上の信者を集め、仏教の基礎が作られたのである。
そして、ラージギルは仏陀の人生において、もっとも長く滞在した街となったのだ。
最後に
こうして、仏陀の名声は高まることとなった。
その後、仏陀はジェータヴァーナ僧院などと並び「仏教の八大聖地」と呼ばれるようになるラージギルを旅立ち、故郷を目指す旅に出る。
80歳を過ぎてなお、仏陀は「悟り」という見えない道に向かって旅を始めたのだった。
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