幕末明治

西郷隆盛と長州征伐について調べてみた

島津久光が薩摩藩の藩主となった当時、西郷隆盛とはそりが合わず、久光に同行して上京する際も、西郷は独断専行をした。先行した西郷は、下関で待機する命を受けていたのだが、京大阪の緊迫した情勢が伝わってきたため、京都へ先行したのである。

流刑という過酷な生活

【※島津久光 wikiより】

西郷が下関で島津久光の到着を待たなかったのは、薩摩藩の国父が出府するという報告を受け、九州全土から長州、土佐の尊王攘夷過激派が幕府打倒を掲げ、京都を目指していたからである。

西郷は、過激派志士たちが挙兵して京都を焼き討ちにすることを思いとどまらせるため先を急いだ。そして、文久2年(1862年)3月29日、京都の伏見に到着する。

だが、下関に西郷の姿がないことに激怒した久光は、ただちに補縛命令を下した。しかも、西郷はこの騒動を煽っていると、ありもしない告げ口をされてしまったのだ。そして西郷は同行の村田新八らともども4月10日に補縛され、鹿児島に護送された。

その後、伏見寺田屋に終結した過激派志士を、久光に派遣された鎮撫隊が上意討ちする悲劇が起こった(寺田屋騒動)。

目まぐるしく変化する政局

【※西郷の流刑地となった沖永良部島 wikiより】

6月11日に山川港を出港した西郷は、7月2日に徳之島に到着。同じ日、奄美大島での隠潜生活をしていたときの島妻だった愛加那(あいかな)が菊子を産んだ。そして、西郷が徳之島にいることを聞き、8月26日に子供2人を連れ西郷の元にやってくる。久しぶりの家族の対面を喜んだのも束の間、沖永良部島(おきのえらぶじま)への遠島命令が届いた。

沖永良部島での生活は当初、過酷なものであった。風雨に晒された4畳の住まい。食べ物もろくに与えられなかったため、一時は衰弱死する恐れすらあった。それを救ってくれたのが、島の高級役人・土持政照(つちもちまさてる)であった。土持は代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたのである。おかげで西郷は健康を取り戻すことができた。

西郷が沖永良部島に遠島になっていたのは、文久2年(1862年)閏8月から元治元年(1864年)2月までであった。この間、生麦事件や長州藩による外国船への砲撃、薩英戦争などが起こり、政局は目まぐるしく変化していた。

西郷、歴史の表舞台へ

【※京都守護職・松平容保 wikiより】

そんななか、寺田屋で多くの志士を死に追いやったうえ、公武合体にこだわる久光は、志士たちからの信用を失っていた。その一方、尊王攘夷を藩是とする長州藩の勢いは増すばかりであった。

長州藩は文久3年(1863年)、孝明天皇の大和行幸を提案する。だが、これに倒幕の企てがあると知った京都守護職の松平容保(かたもり)と島津久光は、真相を中川宮朝彦親王に伝えた。それを聞いた中川宮はすぐさま参内し、孝明天皇を説得する。薩摩と会津の兵に御所を守らせ、長州藩とそれに同調する公家を追放した。

その後、京都政界は薩摩と会津が主導するが、両者の姿勢には微妙な差があり、しかも薩摩は志士たちからの信用を失っている。この状況を打破するためには西郷の力が不可欠だ。大久保利通をはじめとする精忠組の面々はそう考えた。そこで久光の側近を介し、西郷召還を求めた。

こうして元治元年2月21日に、西郷を迎える蒸気船が沖永良部島にやってきた。鹿児島に帰った西郷は3月4日には京都に向かい、19日に軍司令官に任命される。これにより、すぐさま難局に当たることとなった。

第一次長州征伐

第一次長州征伐

【※禁門の変では大火が発生し、京都市街が延焼した wikiより】

西郷が表舞台に復帰したばかりの元治元年(1864年)6月5日、京都三条木屋町の旅館「池田屋」に潜伏していた尊王攘夷派志士を京都守護職配下の新撰組が襲撃。多くの逸材が討ち取られてしまった。

この事件から間もない6月27日、八・一八の政変で追放された7人の公家(七卿)の赦免請願を名目とする長州兵の入京が許可された。西郷は薩摩藩の中立を宣言していたが、長州藩は伏見、佐賀、山崎の三方向から京都へと進軍し、皇居の諸門で幕軍と激突した。西郷は長州軍が御所に迫ると兵を率いて駆けつけ、自らが被弾しつつも長州軍を撃退。この禁門の変後、朝敵となった長州藩を討伐する軍が派遣されることとなった。

こうして第一次長州征伐が勃発する。西郷は薩摩藩代表として、征伐軍参謀に任命される。同じ年の8月、長州は米英仏蘭艦隊に下関を砲撃され、砲台を占拠・破壊されていた。列強との力の差を思い知らされた藩内では、攘夷決行を考え直す動きが生じていた。西郷は長州の内情を知り、討伐軍総督の徳川慶勝(よしかつ)に「武力を使わずに長州を恭順させる」と進言。その交渉役となる。

西郷の新政権樹立構想

この戦いの最中、西郷は勝海舟と会談している。

その際、もはや幕府には政権を担う力は残されていないと聞かされていた。また開戦直後には坂本竜馬とも会っており、そうした人物と会っているうちに、西郷の脳裏には雄藩連合による新政権樹立の構想が芽生えてきたと思われる。だからこそ、諸外国に付け入れられる内紛を早く収めようとしたのだろう。

そのため西郷は長州へと赴き、最終的には命の危険も顧みず下関まで乗り込んだ。そんな西郷の真摯な姿に長州藩も講和を承諾。こうして第一次長州征伐は、12月に血を流すことなく終結したのである。

だが、幕府内には戦闘を行わずに終結した第一次幕長戦争に対し、甘過ぎるという意見も根強かった。次第に再出陣の声が高まり、遂に慶応元年(1865年)5月、将軍徳川家茂は約6万の兵を率いて西上。閏5月22日に京都に入り、幕府と長州は開戦寸前となっていた。これが後の第二次長州征伐である。

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