関羽は「義と武・そして財と智の神」として信仰されている。
三国志演義では教養・知性と豪胆さを合わせ持ち、2mを超える巨漢として描かれている。
関羽は『樊城の戦い(はんじょうのたたかい)」で無念の死を遂げるが、その後広がる『関羽の死の波紋』について調べてみた。
関羽雲長の最後【樊城の戦い】
漢中から魏の大軍を追い返した事で蜀の士気は上がり、蜀の劉備は関羽に、曹操の荊州の拠点、「樊城(はんじょう)」を急襲させる。
曹操は大雨のせいで身動きが取れずに前進もできず、そこへ関羽があらかじめ用意していた船で攻撃し曹操軍は大敗目前だったが、予想以上に水が早く引いた為に関羽は曹操軍と孫権軍に挟み撃ち状態になった。蜀の誤算は呉の孫権が魏の曹操と同盟した事であった。
同盟については、呉は魯粛の死後、対劉備戦略で強硬路線を主張する呂蒙(りょもう)が後継人になった事、関羽が孫家との縁談を断り、孫権の怒りを買った事、関羽が劉備以外の者には尊大で、荊州の中で孤立していたなどの背景があったと思われる。
魏と呉に囲まれた関羽は江陵に逃げるつもりだったが、糜芳(びほう)・傅士仁(ふしじん)はあっさり呂蒙に降伏。
関羽は応援を要請したが「劉封(りゅうほう)=劉備の養子」「孟達=劉備の武将」は関羽の援軍要請を断った。
数多の裏切りにより関羽は孤立無援で当陽の「麦城(ばくじょう)」へ逃げ込むも、呉の孫権軍に捕らえられ、息子の関平と共に斬られた。
関羽の首は孫権の使者によって、魏の曹操へと送られ「諸侯の礼」を持って関羽を葬ったとされる。関羽は死後、神格化され「関羽信仰」が広まり「塩の神様」とし国家と商人をつなぐ「神」として機能したのだった。
関羽の呪い?!【三国志演義】
孟達の裏切り
孟達はその後「魏」に投降し、統治していた荊州の一部が「魏」の領地になると、曹丕は孟達を手厚く処遇。劉備の養子である「劉封」を襲う様に命じた。
劉封の死
孟達の動きを察する事が出来なかった劉封の指揮官としての資質問題に発展。それにプラスして「孟達との戦い」に敗北。その後、劉備から処分が下され「自害」する事になる。
麋竺(びじく)の死
麋竺の弟:糜芳(びほう)が関羽を裏切り「呉」に投降し結果的に関羽は殺された。麋竺は、妹(糜夫人)を嫁がせて資金面で劉備を支えてきた人物なのである。弟の裏切りに実兄麋竺は、劉備に自ら罰して欲しいと懇願する。劉備はこれまでの麋竺の功績に免じ許すが、麋竺は「自責の念」に駆られ発病し死亡する。
呂蒙の謎の死
魯粛の後継人とし、知謀でも優れ「樊城の戦い」では呉軍に勝利をもたらすも、関羽を死に追いやった直後、奇しくも関羽の後を追う様にして、42歳という若さで急死。
祝勝の宴の最中に呂蒙にとりついて孫権に掴みかかり「我は関雲長なり!」と叫び呂蒙の全身から血を噴出させて死亡させる。
曹操に対しても「口と目」を開けて睨み付け、驚愕させ昏倒させて程なく死に至らしめている。その後も関羽は成仏できず彷徨っていたが、普浄という僧侶に論されたとされている。
という様に三国志演義では「関羽を裏切った者達」は不幸な「死」を遂げていくように描かれた。
関羽の人間関係
蜀:劉備玄徳(りゅうびげんとく)
「演義」では後世の脚色により、温厚な「聖人君主」と描かれている劉備玄徳。半面アクの欠けた人物にも見える。だが「史実」の劉備の姿は異なる。
若き日は歌舞・音楽を好み町のチンピラを舎弟にしたり、関羽や張飛を弟分に従えられる彼はやはり無頼漢だった。「史実」の中の劉備も「聖人君主」イメージの基となる要素はある。
「義に暑く、自分の損得より他人を思いやる」という最も愛される性格の持ち主だった。
有名な桃園の誓いは「願わくば、同年同月同日に死なん」と関羽・張飛と共に誓いをたてた「三国志演義」の有名な名シーンだが、これは「逸話」である。
しかし「正史」でも「寝台を共にする程、兄妹の様な恩愛を賭けた」とある様に、三人の結びつきは、兄妹の様に固かった様である。
魏:曹操孟徳(そうそうもうとく)
新しい時代を開いた「三国志」の主役。人材の登用も『唯才是挙』で現代で言えば「織田信長」に近い部分もある。
戦略家としての才能もさる事ながら、文章家でもあった曹操は、多くの戦術理論をいくつもの『兵法書』に記している。現代まで伝わる「孫子兵法」13篇も曹操が編集したものである。「政策」の方面でも革新的な「屯田制」など行い、各地の民衆を大量に集める事に成功、そして魏の経済的・兵糧的な基盤を作ったのである。
関羽の死から間もない頃、曹操は発病、程なく危篤状態になる。いずれにせよ「死期」が迫っていた曹操、周囲は「関羽の呪いではないか?」と囁いていた。
以前から曹操は「義」を重んじる関羽を欲しがっていた。以前曹操が「下邳城」で関羽を包囲した時、曹操は関羽に投降するよう試みるのである。この時関羽は、「生きてさえいればいつか劉備と再会できる」と曹操に従った。この時関羽が曹操に付きつけた条件が以上の通りである。
1、自分は曹操に降伏するのではない、漢の皇帝に降伏するのである。
2、劉備夫人達に存分な禄を出す事。
3、劉備の居所が解り次第、自分は曹操の元を去る。
曹操は、関羽の条件を全て飲んだ。そして曹操は関羽に「名誉・立派な邸・美女10人」と与えるが、関羽は靡かなかった。そして「白馬の戦い」で関羽は大将の首を取り、曹操から受けた「恩」を返し、劉備・張飛の元へと帰ったとされる。これらは完全な『演義』の創作である。史実でも猛将であり、劉備に尽くした事は間違いない関羽であるが『演義』ではより知勇兼備の名将であり、義に厚い人物である様に描かれている。
義絶
その他にも時期は定かではないが、関羽は後に儒教における「五文昌」の一人「文衡聖帝」とされ「山西夫子」と呼ばれている。
これは智勇の「智」の面がより強調された形である。また関羽は『演義』において、「義絶」の面を強調し創作されている。
「義絶」という言葉は単体では「夫婦の義を絶つ・離縁や離婚をする」法律行為意味するが、ここでは異なる。この場合は「三絶」という三つの技芸について、それぞれ優れた人が三人ある、という言葉の一角を表している。『三国志』における三絶とは「智絶」の諸葛亮・「奸絶」の曹操・「義絶」の関羽とこの三人が該当するとされる。
その為、『三国志演義』の中ではそれぞれの特徴が「史実」よりも強調された形で描かれているのである。
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