鳥居元忠の生い立ち
鳥居元忠(とりいもとただ)は、徳川家康に幼少の頃から仕え、その壮絶な最期から「三河武士の鑑」とも称された武将です。
元忠は天文8年(1539年)に松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として生まれました。家康より3歳程年長にあたり、家康が今川の人質だった時期から近侍していた譜代の家臣でした。
永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、これに伴って独立を果たした家康に従い、三河を統一する戦に奔走、徳川家の礎を築きました。
その後も元忠は徳川の主だった戦に出陣、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いなどに加わっています。
元忠は同年に父・忠吉が死去し、長兄も先立っており、次兄は出家していたことから34歳で家督を継いで鳥居家当主となりました。
武田氏の滅亡
元忠は武田氏との天正3年(1575年)5月の長篠の戦い、続く天正9年(1581年)の高天神城の戦いにも従軍し徳川氏の勢力拡大に貢献しています。
武田氏が滅亡した後には、その遺領を巡って北条勢と争う事になり、その中の天正10年(1582年)の天正壬午の乱において、元忠は家康の窮地を数う働きを見せます。
黒駒合戦と呼ばれたこの戦いは、家康の背後を衝こうとした北条氏忠・氏勝勢の兵10,000に対して、甥の三宅康貞・水野勝成らわずか2,000の手勢で挑んだものでした。
この戦いで元忠らは寡兵にも関わらず北条勢を多数を討ち取る武功を挙げ、家康の危機を食い止める事に成功しました。
この武功によって、戦後家康から甲斐国都留郡を与えられた元忠は谷村城主となります。北条との国境を守る重要な地であり、家康の信の厚さを物語るものでした。
三河武士の鑑
続く天正13年(1585年)の第一次上田合戦では、元忠は上杉景勝へ内応した真田昌幸を討伐すべく出陣しましたが、ここでは老獪な昌幸の前に敗北を喫しています。
更に天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍し、岩槻城の攻略に当たりました。この戦さの後、秀吉の命によって家康が関東に移封されたことで、元忠も下総国矢作城4万石を領しました。
豊臣秀吉の死後、5大老の筆頭として豊臣政権最大の実力者となった家康は、自身の対抗勢力を排除しようと企図し、同じ大老職にあった会津の上杉景勝が上洛の命にし従わないとしてこれを征伐することを決定します。
慶長5年(1600年)、この会津討伐に先立ち、家康は京の伏見城の守りを元忠に託しました。巷説では会津に向かった家康の留守に乗じて石田三成らが挙兵し、伏見城を狙うことを見越した上で、敢えてこれを犠牲にすることで三成らを討伐する口実にしようとしたものと伝えられています。
この狙いを承知した上でその役割を受け入れ、家康に天下を獲らせるためと進んで捨て駒の役を引き受けたことから、元忠をして「三河武士の鑑」と呼ばれることになりました。
元忠の最期(伏見城の戦い)
果たして慶長5年(1600年)7月、家康らが会津征伐に向かった後、三成は挙兵し読み通りに伏見城に攻め寄せました。
三成らの軍勢は凡そ4万、これに対する伏見城の元忠らは2千弱。この圧倒的な兵力差にも関わらず、伏見城は2週間余りも持ちこたえ、ようやく8月1日に陥落しました。
巷説では、このとき元忠の首級を挙げたのは、雑賀の鉄砲衆の頭として名高い鈴木重朝(雑賀孫一)であり、その戦いは一騎打ちであったとも、自刃した元忠を介錯したものとも伝えられています。
このとき伏見城では、元忠以下、内藤家長、松平家忠、松平近正、安藤定次らの大勢の家臣も共に討死しまいした。
また、この伏見城には当初家康に与しようとした薩摩の島津義弘が援軍に赴いたものの、連絡の不備で元忠がこれを拒否したため、義弘が西軍に与することになったという逸話も残されています。
元忠の貢献
この後、関ケ原の戦いを制した家康は、更にその地位を盤石なものとして徳川幕府を開きました。
元忠の嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石から更に山形藩24万石の大名に列せられる厚遇を得ました。
その後、元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、それぞれ不行跡を理由に幕府に咎められる事態が発生しました。
通常であれば、改易の可能性もあったものの、いずれも元忠の功績に免じて減封・移封にて取り潰しは免れたと伝えられています。
「三河武士の鑑」という元忠の忠義を称える声は絶えませんが、死地に赴かせることを、進んで行わせた家康の冷徹な計算にも並大抵ではない執念が感じられます。
そこには信長、秀吉の最期を見た経験から、同じ轍を踏むまいとした覚悟も見てとれます。
この記事へのコメントはありません。