元はフランスが主導
スエズ運河 は日本では明治維新を迎えた直後の1869年11月に開通しました。
開通した当時の運河の長さは164km、深さが8mでしたが、以降複数回の工事を経て、2010年には長さ193.3km、深さ24m、幅205mの規模に拡張されています。
スエズ運河はフランス人・フェルディナン・ド・レセップスが提唱し、当時のエジプト総督であったサイード・パシャから権利を得て、スエズ運河会社が設立されて1858年頃から工事が始められました。
開始当時、エジプトの現地人たちも強制労働に動員され、延べでは約150万人の労働者が投入されたと言われる難工事でした。
当時世界を制していたイギリスは、フランスの肝入りで行われたこの運河が開通することによって、自らの植民地であるインドの交易に悪影響をもたらすことを危惧し、労働者らの反抗を促す工作を行うなど建設を妨害する立場を取っていました。
イギリスが株買収
難工事やイギリスの妨害に晒されながらも、何とか開通に漕ぎつけたスエズ運河ではありましたがその開通までに擁した費用は計画時の倍以上に達していました。又開通から2年間の需要も計画を下回り、結果スエズ運河会社は経営的に逼迫した状況に置かれました。
しかしスエズ運河の開通は欧米からのアフリカへのアクセスを容易にし、列強の更なる植民地獲得を助長しました。
建設に反対する立場であったイギリス船舶が、開通後には全体の航行数の80%以上の比率を占めるなど、イギリスにとってもその重要性が高い運河となりました。
しかし当のエジプトは財政難を理由に、1875年に自らが保有していたスエズ運河会社の株式を放出することになりました。これをすかさずイギリスが購入し、全体の4割以上の株を持つ筆頭株主となりました。
イギリスの軍事進出
イギリスは1882年にはエジプトの治安の悪化を理由として軍事介入を推し進め、更に1888年にはエジプトとの条約を締結してスエズ運河そのものをイギリスの管理下に置きました。
その後、二度の世界大戦をはさんでもイギリス軍の駐留は続き、1951年にはエジプト政府によるイギリス軍の撤収の要請が行われました。
同時にエジプト内での反イギリスの活動が活発化しましたが、イギリスは武力によって鎮圧し、スエズ運河の支配を継続しました。
エジプトが国有化
1956年7月、エジプトのナセル大統領はスエズ運河を国有化することを宣言しました。これはそれに先立ちアメリカとイギリスとの支援で建設が進められていたアスワンダムが、エジプトのソ連との接触を理由に中止されたことに端を発していました。
このエジプトの動きに対してイギリスは、フランスとイスラエルと協調した軍事行動に出ました。第二次中東戦争です。ここではイスラエル軍が陸上兵力での侵攻を担い、イギリス軍とフランス軍は空軍を主とした武力行使を行いました。
しかしこの動きにアメリカの賛同は得られず、イギリスは中東を始めとする世界各国からの非難を浴びる事になりました。
イギリスの凋落
第二次中東戦争によってイギリス経済は疲弊し、カナダの提案で国際連合の平和維持軍によるスエズ運河の安全の確保と、シナイ半島からのイスラエル軍のエジプト両軍の撤収が行われることになりました。
第二次世界大戦後に事実上世界最強の国となっていたアメリカもこの案に賛同したことで、イギリス軍の撤退が行われることになり、これ以降イギリスの世界に対する影響力は凋落しました。
こうしてイギリスの没落と対を成すようにスエズ運河の支配も終わりを告げました。
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