大内義隆(おおうちよしたか)は周防・長門を始め5ヶ国の守護を務め、さらに最盛期には肥前も手に入れ北九州を掌握し、大内家を西国一の大大名とするなど最盛期に導きました。
しかし、晩年に入ると文化に傾倒しまくり家臣の顰蹙を買ってしまい、最後には家臣の陶晴賢(すえはるたか)の謀反によって自害に追い込まれてしまいました。
どうして大内家の最盛期を導いた戦国大名が、一気に文化に傾倒してしまったのでしょうか?
今回は大内義隆について追っていきます。
生まれながらの跡取り息子として
大内義隆(おおうちよしたか)は、代々長門・周防と北九州を治めていた大内家の第15代当主、大内義興の嫡子として生まれます。
大内家といえば応仁の乱でも活躍した名門中の名門。さらに日明貿易の実権も細川家から奪い取ったこともあって、日本随一の経済力も持ち合わせていた戦国時代初期の大大名といっても遜色ない家でした。
そんな名門に生まれた義隆でしたが、義隆は義興の息子として生まれた時点ですぐさま跡取りとされたそうです。この当時幼児が死んでしまうのは当たり前。そんな時代に早々に跡取りを決めるのはギャンブルといってもおかしくありません。
でも、なんとか義隆はすくすく成長。17歳の時には安芸に出兵するまでに成長し、大内家の当主となる人としての実績を上げていきます。
北九州制圧大作戦
こうして大内家の嫡子としてすくすく成長していく大内義隆。そして1528年に父の大内義興が亡くなると義隆がついに家督を継ぎました。
こうして当主となった義隆の最初の目標は北九州の制圧でした。当時大内家は日明貿易にて巨額の富を築いていましたが、その航海のルートを確保するにはどうしても北九州、特に肥前国の確保が必要不可欠だったのです。
しかし、この当時肥前国は鎌倉時代からの由緒ある名門であった少弐家が治めており、なかなか攻めることができません。そんな大内家でしたが、義隆は少弐家をスムーズに攻めることができるように、巨額の富を使って朝廷に対して献金を行い、太宰大弐と呼ばれる太宰府のトップ2の役職を手に入れることに成功します。
当時官位の意味はどんどん失われていきましたが、朝廷から正式にもらったとなればブランドはありますから、少弐家を攻める大義名分にはもってこいの代物です。
こうして大義名分を手に入れた義隆は少弐家を滅ぼし、さらに豊後の大友家とも講和を結ぶと義隆はついに北九州を手に入れたのでした。
ライバル尼子家
こうして北九州を手に入れて順風満帆だった義隆でしたが、中国地方方面では苦戦を強いられていました。
当時中国地方では出雲を本拠地としていた尼子家が急成長しており、大内家を脅かす存在でした。1540年には当時安芸の領主であった毛利家を助け尼子家に大打撃を与えて毛利家を傘下に収めます。
さらに義隆は尼子家の当主であった尼子経久の死を受けて出雲侵攻を決意。4万5000人の大軍で本拠地の月山富田城を攻めにかかりました。
運命の月山富田城
こうして始まった中国地方の一大決戦である月山富田城の戦い。
この戦いは序盤は確かに大内家の圧倒的な優勢で始まりましたが、その戦いの開始が10月だったことと、尼子軍の徹底的なゲリラ戦法に苦戦を強いられていきます。
そもそも尼子家の月山富田城は堅城中の堅城。城攻めには5倍の兵力が必要と言われていますから、なかなか城を落とすことができません。
さらに、尼子家は大内家についていた領主を煽り立てて寝返りをさせていきます。
こうして苦戦を強いられた大内軍は退却。尼子家の徹底的な追撃戦によって大内軍は大損害を被り、あの毛利元就も自害寸前まで追い込まれました。
さらにこの撤退戦のときに、船の事故によって継養子である大内晴持を失ってしまったのでした。
文化に傾倒し過ぎて凋落の道へ
こうして月山富田城は大内軍の大敗北にて終結しましたが、やはり愛する継養子の死の影響は大きく、この戦い以降義隆は政治に興味を失っていきます。
跡取りが戦死や事故死などで亡くなってしまい性格が激変した戦国武将といえば、有名どころで言えば長宗我部元親が挙げられます。
義隆は政治に興味を失いますが、そのかわり興味を持ったのが文化でした。
大内家が本拠地としていた山口は、当時日本で一二を争うほど繁栄していた都市であり、その様子は『西の京』とも呼ばれていました。
さらに1550年にはキリスト教宣教師であるフランシスコ・ザビエルと面会。
最初は伝統的な文化を否定するザビエルとの面会を拒否しましたが、翌年の面会では当時日本にはなかった眼鏡や置時計などを献上されます。この珍しい品を義隆は気に入り、ザビエルに対して大道寺と呼ばれる日本初の教会を与えられました。
しかし、戦国大名が文化の傾倒するのはよろしくない。そう感じていた陶晴賢(すえはるたか)を筆頭とした武断派は、ついに謀反の動きを見せていくのでした。
大寧寺の変
文化に傾倒し過ぎた義隆と陶晴賢との仲は徐々に険悪なものになり、ついに1551年に陶晴賢は所領の周防にて挙兵。家臣もほとんど黙認してしまい、義隆は逃亡を強いられることになります。
家臣の信頼を失っていた義隆を助ける家臣はほとんどおらず、親戚がいる津和野に着く前に長門大寧寺にて陶軍に包囲され、ここで自害を果たしました。
その後、大内家は陶晴賢によって大友家の養子である大内義長が一応当主となるのですが、この大寧寺の変が起こった4年後に陶晴賢自身も厳島の戦いにて、毛利元就によって包囲され自害に追い込まれます。
こうして重臣すらいなくなった大内家はその後、毛利元就によって滅亡させられました。
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