幕末明治

橋本佐内 ~26才で処刑された幕末の天才

橋本左内とは

橋本佐内

橋本佐内 (はしもとさない)とは、明治維新の最大の功労者である西郷隆盛からその思想と行動力を評価された人物です。

福井藩の藩医から武士になり、若くして松平春嶽の側近として西郷と共に働くことになります。
激動の幕末を駆け抜け、若くして悲劇の最後を迎えた橋本佐内について調べてみました。

福井藩の神童

橋本佐内は、天保5年(1834年)3月11日に越前福井藩の奥医師・橋本長綱の長男として生まれます。

佐内は、幼い時から勉学に励み7歳にして漢籍・詩文・書道を、8歳で漢学を学びました。15歳の時には「啓発録」を執筆。

その内容は

「目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心、親への甘えは学問の上達を妨げ、武士としての気概を持てないので捨て去る」

「人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する」

「自分の心の赴くところを定めて一度決めたらその決心を失わないようにする」

「優れた人物の素行を見習い自らも実行、学問では何事にも強い意志を保ち努力を続け、自らの才能を鼻にかけず、富や権力に心を奪われない、用心して慎む、指摘してくれる良い友人を選ぶ」

「同郷、学友、同学年の友人を大切にして、友人を見極め、益友といえる人がいたら自分から交際を求め、兄弟のように付き合うのが良い」

という自己啓発を記した本を書き、福井藩きっての神童と呼ばれます。

※緒方洪庵肖像

16歳の時には、大阪に出て医師で蘭学者の緒方洪庵が開いた適塾で医学と蘭学を学びました。

緒方洪庵も佐内の頭の良さに舌を巻いて「池中の蛟竜」と評します。その意味はチャンスにめぐり会いさえすれば、その才能を発揮して大いに活躍できる素質を持っている人物だと言ったのです。

適塾は、福沢諭吉大村益次郎、大鳥圭介らなど多くの優秀な人材を輩出している緒方洪庵の私塾、正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)と称します。

嘉永5年(1852年)19歳の時、父が病に倒れたために佐内は福井に戻り藩医を継いだのです。

松平春嶽に仕える

安政元年(1854年)、江戸に遊学して杉田成卿(杉田玄白の孫)から蘭学と蘭方医学を学び、独学で英語とドイツ語を、その頃黒船を見て、日本の置かれている時勢を憂い医学から離れる決心を固めます。

橋本佐内

※松平春嶽

安政2年(1855年)、福井に戻ると洋学の才をかわれ、藩医の職を解かれて松平春嶽の側近として御書院番に登用されて士分となり、同年11月には江戸出府を命じられます。

江戸では、橋本佐内の秀才振りが広く知れ渡り、薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)、水戸藩の藤田東湖や武田耕雲斎、熊本藩の横井小楠、小浜藩の梅田雲浜らと交流します。

安政4年(1857年)、藩校の「明道館」の学監同様心得となり、西洋の学問や技術を取り入れて洋書習学所を開設するなど教育改革に取り組み、同年8月に江戸詰めを命じられ侍読兼御内用係となり、松平春嶽の側近として藩政改革に取り組み、国の政治にも関わるようになります。

将軍継嗣問題

橋本佐内

※徳川慶喜

橋本佐内は、14代将軍に水戸藩主・徳川斉昭の息子・一橋慶喜を推す一橋派の松平春嶽の右腕として慶喜擁立に活躍、同じ一橋派の島津藩主・島津斉彬の側近だった西郷吉之助(西郷隆盛)と共に奔走します。

二人は、江戸では幕閣対策を、京では朝廷工作を行い、互いに連絡を密に取り合う仲だったのです。

橋本佐内は、英明な一橋慶喜を将軍に迎えて、雄藩連合で幕藩体制を維持したまま西洋の最新技術を導入、ロシアと手を結びイギリスなどの西洋列強に対抗しようと幕政の改革を訴えるのです。

安政の大獄

橋本佐内

※井伊直弼画像

14代将軍の継嗣は、南紀派が推す紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)に決まります。

そして大老の井伊直弼による一橋派の粛清「安政の大獄」が始まり、主君の松平春嶽は蟄居謹慎、橋本佐内は取り調べを受け「私心でやったのではなく藩主の命令である、私の行動は全て幕府のためにしたこと」と主張しました。この主張に井伊直弼は怒ります。なぜなら藩主をかばうのが当然という朱子学の武士の倫理に反することだからです。

本来ならば遠島で済む刑罰が心証を悪くしてしまい、安政6年(1859年)10月7日、江戸伝馬町の牢屋敷で橋本左内は斬首となり、26歳の短い生涯を終えます。

本人は死罪を予想してはおらず、その最後は無念から泣きじゃくったと伝わっており、佐内が斬首へと引き出される時に牢名主が泣きながら「あなたのような若く優秀な方が処刑されるのは惜しいこと、あなたの身代わりに私が死ねたらよいのに」と言ったそうです。それほどの人物だったのでしょう。

福井 左内公園の橋本左内の墓 wikiより

は、福井の善慶寺に隣接する佐内公園と、吉田松陰などと共に南千住の回向院にあります。

西郷隆盛は、「先輩として藤田東湖に服し、同輩においては橋本佐内を推す」と評価し、佐内の死を流罪となった奄美大島で知った西郷は「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」と悲しみました。

明治10年(1877年)に自刃した西郷は、橋本佐内の手紙を死の直前まで肌身離さず持っていたといいます。

橋本佐内の評価と名言

西郷隆盛の他にも、橋本佐内と会った人が彼を絶賛しています。

緒方洪庵は、「橋本佐内はいずれこの適塾の名前を高めてくれるであろう」と評価しています。
幕府の旗本・川路聖謨は、「一生の間に多くの人物に出会ったが、これほど優れた人物は未だに見たことがない」と評価しています。
幕府の旗本・水野忠徳は、「橋本佐内を殺したことが、幕府が滅んだ直接的な原因だ」と評価しています。

橋本佐内を知る人全てが、橋本佐内の人柄や考えを絶賛していたようです。

橋本佐内は、

「激流にも耐えうる柱のようにゆるぎない信念を心に持て」

「目標に達するまでの道筋を多くしないこと」

「学問は生涯を通じて心掛けねばならない」

「男子たるもの憂慮するところは、ただ国家が安泰であるか危機に直面しているかという点のみ」

など多数の名言も残しています。

おわりに

橋本佐内は藩医でしたが、黒船来航を目にして日本が置かれている時勢を憂い藩医から武士になりました。

類いまれなる才能から若くして松平春嶽の側近として藩政改革や日本の国の舵取り(将軍継嗣問題)に奔走します。

西郷隆盛に「同輩においては橋本佐内を推す」と評されるほどの働きをしますが、安政の大獄により26歳の短い生涯を終えました。

もし、橋本佐内が流罪で済んでいたとしたら、倒幕に舵を切り明治維新を成し遂げる西郷隆盛をどう思ったのかが気になります。

 

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