武から知の時代への転換期
三国志の時代は武将とともに軍師が活躍した時代であり、寡兵でも軍師の活躍によって大軍を打ち破るなど、武将の質によって勝つ「武」の時代から軍師の采配によって勝つ「知」の時代への転換期でもあった。
そのため武将だけでなく軍師の人気も高く、三国志ファンの間では、最強の武将は誰かという議論は勿論、最強の軍師は誰かという議論も頻繁にかわされる。
戦で活躍するのは武将でも、武将を動かすのが軍師であり、軍師の采配によって敵の半分以下の戦力で大軍を打ち負かすシーンには爽快感を覚える。
このように軍師は重要かつ人気の高いポジションであり、孔明こと諸葛亮と司馬懿の名は当代を代表する軍師として真っ先に名前が挙がるほど有名だが、今回スポットライトを当てるのは孔明でも司馬懿でもなく、劉備の初代軍師というべき 徐庶元直(じょしょげんちょく)である。
演義では劉備の人生を変える重要人物として大活躍する徐庶だが、諸葛亮伝に徐庶の名前と簡単な経歴の紹介があるだけで、徐庶個人の伝は存在しない。
また、劉備に孔明を紹介した以外に徐庶の目立った記述はなく、演義の活躍から広まった名軍師というイメージからは大きく掛け離れている。
今回は、演義の読者に大きなインパクトを残した幻の名軍事こと、徐庶の人生を調べてみた。
徐庶と孔明が出会うまで
徐庶は元の名を徐福といい、豫州の穎川で生まれた。(徐福から徐庶に改名したのは晩年と言われているが、ここでは世間一般に知られている「徐庶」の名で統一する)
正史と演義で一致しているところでは、徐庶の若い頃は撃剣(基本投擲用だが刺す事にも使える短剣)の使い手であり、いわゆる任侠と呼ばれる類の人間だった。
ある時、徐庶は知人の仇討ちに加担したため捕らえられてしまうが、後に仲間によって助け出されている。
それから徐庶は剣を置いて学問に励むようになり、黄巾の乱を境に荊州へと移住する。
そして、荊州の名士であった司馬徽の門下生となり、同門として孔明と出会う。
司馬徽門下として始まった徐庶と孔明の交流だが、孔明が徐庶を始めとする仲間達の将来的な役職を予想する中で、逆に自身の将来を聞かれた時は孔明はニヤリと笑うだけで何も答えなかったと書かれている。
一説によると孔明は自身を古代の名宰相である管仲と、同じく古代の軍略家である楽毅に例えていたとされており、孔明が本気で自分が一国の丞相になれると思っていたかは本人にしか分からないが、正史に書かれた徐庶と孔明の数少ない絡みは、それだけ孔明が自分に自信を持っていた事を表すエピソードとして有名である。
演義で見せた徐庶の活躍
正史には単家の福と書かれているが、ここで使われている「単」とは無名の家柄という意味で、生まれた時は単福という名前だったという訳ではない。
演義の著者とされている羅貫中が「単」の意味を勘違いしたのか、それを使って独自の設定として付け加えたのかは定かではないが、演義で徐庶が劉備の前に現れる時に単福(ぜんふく)と名乗っていたのは、正史で「単家の福」と書かれていたためである。
演義に於ける200年初頭の劉備は曹操相手に連戦連敗を重ねており、関羽、張飛、趙雲といった猛将はいても彼らを動かす軍師がおらず、劉備は軍師探しに躍起になっていた。
そこにタイミング良く単福こと徐庶が現れ、劉備に仕える事になる。
劉備軍に加わった初めての軍師である徐庶は劉備軍自慢の猛将を自在に操り、曹操軍の名将曹仁を完膚なきまでに叩きのめし、見事に退却させる。
このシーンを目にした読者は、軍師が一人加わるだけでここまで変わるのかと強い衝撃を受け、徐庶がいれば勝てない相手はいない、と徐庶が指揮する劉備軍が何処まで強くなるのかとワクワクさせられる。(言うまでもなく、徐庶が曹仁軍を撃退するところは演義の創作であり、徐庶が劉備軍の戦闘を指揮した事は正史には一言も記されていない)
なお、正史では劉備軍に加わった時の様子が書かれておらず、演義のようにわざと劉備を怒らせるような言動を取って自分が仕えるべき主君に足る器か試したという逸話もなく、いつの間にか劉備に仕えており、劉備配下としての働きも孔明を紹介したと書いてあるに過ぎない。
劉備が三顧の礼で孔明を迎えた事は正史にも書かれている史実であり、孔明と徐庶が一緒に劉備に仕えていた時期は確かに存在するが、残念ながら同じ主君に仕えるようになった孔明と徐庶の交流は何も書かれていない。
徐庶との別れ
結局、徐庶の母親が曹操に捕らえられた事がきっかけとなり徐庶は曹操に仕える事になるが、正史には演義のように徐庶との別れを惜しんで劉備が取り乱す迷シーンは描かれておらず、劉備と徐庶がどのように別れを告げたかも描かれていない。(また、徐庶の母親が劉備を離れて曹操に仕えた息子に失望して自殺するのもフィクションである)
演義では赤壁の戦いに於いて、龐統の連環の計を見破るも曹操にはそれが罠であると進言せず、曹操軍大敗のきっかけの一つを作る役として登場しますが、これもフィクションである。
曹操に仕えてからの記述が劉備に仕えていた頃以上に乏しい徐庶だが、孔明の晩年に再び名前が登場する。
孔明が北伐した際に魏に仕えている同門の現在の役職を調べたところ、徐庶が御史中丞(宮中での不正を取り締まる役職)である事を知った孔明が徐庶の役職の低さを嘆いたとある。
孔明の反応だけを見たら徐庶は魏で冷遇されていたような印象を受けるが、御史中丞という役職は決して低いものではないため、徐庶は魏で冷遇されていた訳ではなく、むしろ出世して立派になっていたと見るべきである。
幻の名軍師の実像
『三國無双』などのゲーム作品では、劉備の元で活躍する徐庶が見たいというファンの声に応えるように蜀のキャラクターとして登場するが、魏での徐庶はそれなりに出世し、母親とも一緒に暮らしていたため、実際は思った以上に幸せな生活を送っていた。
なお、正史では徐庶の生年は書かれておらず、没年もはっきりとは書かれていないが、徐庶も孔明とほぼ同時期に亡くなったとの事で、享年は50代中盤だったというのが一般的な説である。
ここまで徐庶の人生を振り返って来たが、演義で見せた活躍は正史で一切書かれておらず、劉備に関係している記述も司馬徽の同門だった縁で劉備に孔明を紹介した事と、曹操に捕えられた母のために劉備の元を去ったという2点しかない。
ただ、この僅かな記述が演義で活躍の場を与える事になり、少ない記述をヒントに徐庶を人気軍師に仕立て上げた羅貫中の着眼点と文章力(想像力)は、現代の一流作家顔負けだったと感服せざるを得ない。
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