人気ゲームでネタにされた驚愕のステータス
統率 3
武力 5
知力 9
政治 4
これは、コーエーテクモゲームスの『三國志』シリーズでXから12までの劉備の息子、 劉禅(りゅうぜん)に与えられた能力値である。
一国の皇帝でありながらまさかの全能力一桁という低評価に驚かされるが、3594という数字を見て分かる通り「さんごくし」という語呂で遊んだだけである。(IXは統率3 武力 2 知力4 政治7ともっと酷かったので、ネタにされるようになったのはXからである)
演義では暗君として蜀の足を引っ張り、魏に攻め込まれたら戦わずに降伏するという、蜀のファンという視点から見るといいところがなく、三国志の中で最も嫌われている人物の一人といっても過言ではない。
更に、ゲームの世界でもスタッフからステータスの数字で遊ばれてネタにされるなど散々な扱いだが、これはあくまで演義をベースにした劉禅の評価である。
今回は、劉禅を正当に評価するために正史に記された劉禅の姿について解説する。
劉禅の政治スタンス
223年、劉備が死去すると太子に任命されていた劉禅が二代目皇帝として即位する。
劉禅自身自分の為政者としての力量が劣っている事を分かっていたからか、基本的に政治も軍事も配下に任せており、分かりやすい言葉で表現すると「王は君臨すれども統治せず」という言葉を1800年前から実践していた。
また、当時の蜀は魏や呉と比較したら人材難ではあったが、諸葛亮、蒋琬(しょうえん)、費禕(ひい)といった優秀な政治家が政治を取り仕切っていた事もあって、長い間安定した政治が行われていた。
しかし、政治面に於いて優秀な後継者が育たず、費禕の死後から蜀の歯車が色々と狂い始めるのだが、少なくとも劉禅が統治していた間は国を揺るがすような反乱が起きる事はなく、内政面に於いて劉禅の人材配置は成功していたといえる。
狂い始めた蜀の歯車
劉禅は軍事面に於いても家臣に一任しており、漢室の再興を目指して行った北伐も諸葛孔明に一任していた。
その北伐は孔明の死によって一旦頓挫し、蜀は蒋琬と費禕による内政重視の時代に移行する。
蒋琬の死後、費禕は内政面だけでなく軍事面でも権限を持つようになり、北伐の再開を希望する姜維(きょうい)に対して「丞相(孔明)が出来なかった事が我々に出来るはずがない」と却下するなど、蜀のマイナスになるような事は徹底して避けるようにしていた。
軍事面では無茶な北伐をしようとする姜維を抑え、内政面では費禕の役職を受け継いだ董允(とういん)が政務に就いたら一気に仕事が滞り、人前では遊んでいるように見せながら裏では膨大な量の政務をこなしていた費禕の凄さを思い知ったという「伝説」を残すなど、費禕は実質的な蜀の大黒柱として大活躍していた。(劉禅が皇帝として何かした訳ではないが、好意的に解釈すると「費禕に任せればどちらも破綻なくやってくれるから大丈夫」と全権を委ねた大胆な人事は結果的に大正解だった)
軍事面でも内政面でも劉禅の期待通り、存分に自分の能力を発揮していた費禕だが、253年に魏の降将である郭循(かくじゅん)に暗殺されると、蜀の歯車が大きく狂い始める。
当時の蜀のナンバーワンだった費禕を失ったのも大きな損失だったが、同時に姜維を抑えるブレーキ役がいなくなった事も意味していた。
姜維の暴走と蜀滅亡
費禕の死後、軍事的権限を握った姜維は北伐と失敗を繰り返して、蜀の国力を大幅に衰退させる。
劉禅は相変わらず「君臨すれども統治せず」のスタンスを貫いていたが、蜀の末期になると劉禅の側にはまともな側近がおらず、劉禅のお気に入りだった宦官の黄皓(こうこう)は流されやすい劉禅の性格を利用して陰で政治を操るようになり、それを問題視して黄皓を劉禅の側から外させようとする姜維と政治争いをするようになっていた。(但し、蜀の内部でも無駄な北伐で国を疲弊させた姜維を嫌う者は多く、姜維は孤立した状態だった)
262年、魏が蜀に攻め込んで来ると、姜維は劉禅に援軍を要請するが、その要請は黄皓によって握り潰され、ついには成都への侵攻を許してしまう。
魏軍が目の前に迫っている事によって初めて状況を理解した劉禅は戦わずに降伏する事を選択し、蜀は41年の歴史を閉じた。
劉禅の再評価と消えないマイナスイメージ
演義の読者で、蜀のファンという視点から見ると蜀軍が奮戦する中で劉禅は何もせず、敵が来たらあっさり降伏する腰抜けとして、良い印象は持てない。(加えて北伐でいいところになる度に余計な横槍を入れて蜀軍を撤退させているが、大半は演義のフィクションである)
その一方で、被害が出る前に降伏する事で成都を戦火から守ったという見方もあり、徹底抗戦をして余計な被害を出すよりは賢い判断だったという評価も最近では目立つようになっている。
皇帝として何か画期的な政策を行った訳ではなく、後宮の人数を増やそうとして董允から咎められるなど、劉禅の記述にまともなものがほぼ皆無だった事も事実だが、有能な人物に政治を任せている間は蜀の国内は安定していた。
また、劉禅が劉備の後を継いでから滅亡するまでの39年間、蜀の国内で国を揺るがすような反乱は一度もなく、見過ごされがちだが長い間国を安定させていた劉禅の手腕(人材配置)は評価されるべきである。
陳寿は劉禅を「白い糸は染められるままに何色にも変ずる」と評しており、優秀な人間が側にいれば良くなり、悪い人間に囲まれたらダメになるタイプの人間だった。
劉禅もそれを自覚していたのか、在位中は徹頭徹尾「君臨すれども統治せず」を貫いたため、いい意味でも悪い意味でも「何もしていない」劉禅を君主として評価する事は難しい。
確かに劉禅が君主として力不足だったのは事実だが、少なくとも地球の歴史上多数存在した「暴君」のような暴政を行った訳ではなく、大きな失政をしている訳でもないので「暗君」とも言い切れない。
能力不足なら能力不足なりにもっと周囲を上手く使う努力をして欲しかったというところはあるが、蜀の最後の10年間の人材配置を誤った事で劉禅を暗君扱いするのは厳しいと感じる。
劉備亡き後の蜀を39年を治めた劉禅の功績を評価する声が高まる一方で、長きに渡って定着したイメージによって依然として劉禅を嫌う者も多い。
結局のところこれもファンの感情による好き嫌いが大きく、劉禅の再評価から「無能であるため蜀を滅ぼした暗君」というイメージは払拭されつつあるが、1800年近くファンに植え付けられたイメージが簡単には消えないのもまた現実である。
劉禅は欲が少なかったんでしょうね。
これがガツガツしたタイプなら、それなりに自分で動かそうとする上に暴君にもなったでしょう。
あとは人材が少ないのに有能な人物に恵まれていたのが幸運だったのかと。
魏のように人材だらけだと内紛の元になってたでしょう。