上杉景勝とは
上杉景勝(うえすぎかげかつ)は越後の龍と謳われた上杉謙信(うえすぎけんしん)の甥で、謙信の後継者を同じ養子の上杉景虎(うえすぎかげとら)と争いその戦いに勝利して上杉家の当主となる。
しかし、この戦いは越後の国を二分して行われたために、上杉家の軍事力が大幅に低下し、織田信長に攻められて滅亡の危機を迎える。
景勝はなんとかそれに耐えて120万石の大大名となったが、信長の死後は徳川家康という次の巨大な敵が現れる。
戦国時代を生き抜き、笑わない武将と呼ばれた上杉景勝について追っていく。
生い立ち
上杉景勝は弘治元年(1556年)越後国(現在の新潟県南魚沼市)の坂戸城主・長尾政景の次男として生まれた。
長男が10歳で早世したために景勝は世子となる。
父・政景は上田長尾家の当主で上杉謙信の重臣であった。
母・仙桃院は謙信の実姉で、景勝は謙信の甥である。
父・政景が永禄7年(1564年)湖で溺死し、景勝は謙信の居城・春日山城に入って謙信の養子となる。
子供がいなかった謙信は、景勝たち姉の子を我が子のように可愛がった。
永禄9年(1566年)景勝は関東への出兵で初陣を飾り、以降は謙信の実行部隊となる上田衆を率いて重要な役割を担っていく。
謙信は永禄13年(1570年)同盟を結んだ北条氏康の七男・北条三郎を養子に迎えて名前を自分の初名「景虎」を与えて景勝の姉・清円院を娶らす。
景虎と清円院の間には男子・道満丸(どうまんまる)が誕生し、謙信はすごく喜んだとされている。
天正3年(1575年)謙信は21歳の景勝に上杉姓を与えて弾正少弼の位を譲り、謙信の尊称であった「御実城様」と似た呼び名の「御中城様」として、上杉一門衆の名簿の筆頭にしている。
これによって景勝は、謙信の後継者の1人と目されるようになる。
御館の乱
天正6年(1578年)3月13日、謙信が春日山城で突然倒れ、後継者を指名しないまま急死してしまう。
実は謙信は景虎の子で景勝の甥である・道満丸を後継者として、成人するまでは景勝を中継ぎの後継者とするように景勝と景虎に遺言していたという説がある。
景勝を中継ぎの後継者として、道満丸が成人したら後継者を譲れば両者の関係が保たれると謙信は考えたとされる。
重臣たちにそのことを伝えずに謙信が急死してしまったために、景勝はいち早く本丸に入り金蔵と武器蔵を接収し、謙信の印判などを掌握して後継者となったことを宣言する。
しかし、景勝の重臣に対する高圧的な態度に不満を持った越後の国衆たちは、景虎の家督継承へと動く。
これによって景勝と景虎の後継者争い「御館(おたて)の乱」が起こってしまう。
上杉家は二分されて、景勝には謙信の側近や旗本の多くがつき、景虎には上杉憲政ら上杉一門衆の多くと周辺の大名がついた。
同年5月、景勝は景虎のいる春日山城の三の丸を攻め、景虎は御館に移る。
景虎は春日山城を攻めるが失敗し、北条に援軍を求めた。
しかし、北条は北関東で佐竹・宇都宮と交戦中であったために武田勝頼に援軍を要請し、6月に勝頼は2万の大軍で越後に侵攻する。
窮地に立った景勝は、勝頼に上野沼田領の割譲と黄金の提供を条件とする和睦を願うことになる。
経済的にも苦しかった勝頼はこれを受けて、景勝と勝頼の和睦は成立した。
勝頼の仲介によって景勝と景虎は和睦をするが、この隙をついて徳川家康が武田領へと侵攻する。
勝頼が甲斐に戻ってしまったため、景勝と景虎の和睦は破談となった。
これに怒った北条は、9月になって軍勢を越後に侵攻し、景勝方の城を落として坂戸城を包囲する。
この戦いは激戦となるも、冬になり雪が降ってきたために、北条は補給路の問題によって関東に撤退した。
天正7年(1579年)2月、北条の脅威が去った景勝は、景虎のいる御館に総攻撃をかける。
3月には御館は放火されて落城し、景虎は小田原に向かって逃亡することになる。
しかし、味方の裏切りにあって、追い詰められた景虎は3月24日に自害。
その後も景虎方の神余親綱や本庄秀綱の抵抗が続き、謙信の死後、約2年の歳月を持ってようやく御館の乱を平定し、景勝は上杉家の当主となった。
内乱の影響
越後の国を二分した御館の乱で、上杉家は多くの将兵を失い、軍事力はかなり低下してしまう。
しかも、恩賞の配分に不満が続出して内乱が起こり、その平定に7年もの歳月がかかった。
そんな中、天正9年(1581年)織田信長の重臣・柴田勝家が前田利家・佐々成政・佐久間盛政らと越後に侵攻してくる。
会津の蘆名盛隆にも侵攻され、景勝は武田に援軍を頼むが、武田は織田・徳川・北条に囲まれて滅亡してしまう。
天正10年(1582年)織田軍は5万の軍勢で越中国をほぼ制圧し、景勝は窮地に立たされる。
しかも関東からは織田軍の滝川一益にも攻められて、敵に囲まれてしまう形となった。
しかし、6月2日に信長が本能寺の変で明智光秀に急襲され自害したことで織田軍の侵攻が止まり、景勝は九死に一生を得た。
豊臣秀吉の臣下に
その後も厳しい戦いが続いたが、景勝は織田政権で権力を握った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に近づき、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、富山の役なども秀吉に味方した。
天正14年(1586年)上洛して秀吉と会い、養子を人質として差し出して秀吉の臣下となる。
諸大名の中では一番早く秀吉への臣従をしたために、秀吉からの信頼はさらに厚くなる。
景勝は秀吉の支援を受け、7年もの内乱の宿敵、新発田重家(しばたいえしげ)を自刃に追いやり越後の再統一を成し遂げる。
天正16年(1588年)再び上洛し、秀吉から豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、従三位・参議に叙任されることになる。
その後も小田原征伐・朝鮮出兵にも参戦し、文禄3年(1594年)景勝は中納言を叙任して「越後中納言」と呼ばれた。
文禄4年(1595年)景勝は秀吉から徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景と共に大老に任じられた。
小早川隆景の死後は、景勝ら五人の大老は「豊臣五大老」と呼ばれるようになった。
慶長3年(1598年)秀吉は蒲生秀行を宇都宮城に移封して、景勝を会津120万石に加増移封した。
これは東北諸大名と家康の監視と牽制という、重大な使命がある移封である。
景勝は米沢城には家老・直江兼続、伊達との最前線の白石城には甘糟景継、福島城には本庄繁長ら重臣を配置して備えた。
会津征伐
慶長3年(1598年)3月、秀吉が死去すると家老・直江兼続(なおえかねつぐ)が、五奉行の石田三成と懇意にあったなどの経緯で家康と対立した。
景勝と家康との対立は深まり慶長5年(1600年)2月に、景勝は領内の城の補修を命じる。
同年3月、会津の鶴ヶ城が手狭になると考えた景勝は、新たに新城の普請を始める。
4月、家康は景勝に伏見城に上洛して領内諸城改修の申し開きをせよと召喚命令を出すが、景勝はこれを拒否する。
この時に直江兼続が挑発的な返答「直江状」を出したことによって、家康と景勝の衝突は避けられなくなった。
家康は大軍で会津征伐に出陣すると、6月に景勝は新城の普請を中断し、家康に備え若松城で軍議を開き、敵を白河の南方革篭原に誘い込んで全滅させる作戦を立案した。
しかし7月、家康の留守中に大阪で石田三成が挙兵する。
家康は会津征伐を中止して西に向わざるを得なくなった。家康が西に向かうと9月に景勝は出兵し、東軍についた伊達政宗や最上義光らと戦った(※慶長出羽合戦)
直江兼続の軍勢と最上軍は激しい戦いを繰り広げていたが、9月15日、家康の率いる東軍が関ヶ原の戦いで勝利したために直江兼続は撤退。
上杉家は12月に家康に降伏した。
翌年2月、景勝は兼続と共に上洛して家康に謝罪して改易は免れたが、出羽国米沢30万石に減移封されてしまうことになる。
晩年
米沢に入るが120万石から30万石になり、上杉家の多くの家臣を人員整理しなかったため、家臣たちの生活は困窮した。
慶長9年(1604年)側室との間に嫡男・定勝が誕生している。
大坂冬の陣・夏の陣に徳川方として出陣し、元和9年(1623年)3月20日、米沢城で死去した。享年69歳。
家督は嫡男・定勝が継ぎ、米沢藩上杉家は幕末まで続くことになる。
おわりに
上杉景勝は頑固でまじめで口下手であり、感情を表に出すことがなく、家臣の前で笑ったのは生涯でたった1回だとされている。
家督争いは、景勝が重臣の神余親綱に謝罪しなかったことも原因のひとつで、自分の意思を曲げない頑固な性格も災いした。
しかし景勝には直江兼続という、幼い頃から共に学んだ重臣がいた。
兼続は無口な景勝に代わって内政や外交を担当し景勝を助け、豊臣五大老にまでしている。
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