時は戦国末期の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦において西軍の総大将となりながら、一戦も交えることなく敗れてしまった毛利輝元(もうり てるもと)。
これは東軍の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)と交わした「中立を保つのであれば、本領を安堵する」という密約を、毛利家(※)は「直接的な戦闘行為に及ばない=中立」と誤解。
(※)厳密には、西軍に勝ち目がないと覚った家老の吉川広家(きっかわ ひろいえ。輝元の叔父)が輝元に無断で「形式上、関ヶ原に出陣はしますが、どんな手を使ってでも攻撃はさせませんから、それを中立とみなして下さい」と約束をしています。
しかし、そんな理屈を家康が許すはずもなく(と言うより広家との約束を反故にして)、やむなく西軍の総大将に祭り上げられてしまった事情など百も承知(むしろ最初から陥れるつもり)で
「形式上であろうが何だろうが、西軍の総大将となったのは我らへの敵対行為であり、中立の約束を破った以上、本領の安堵は相成らぬ!」
……という訳で、元々持っていた120万石の領土を30万石にまで削られ、毛利家は政治的に敗北してしまったのでした。
「こんなことになるなら、最初から堂々と戦っておけばよかった……」
今さら悔やんだところで後の祭り。広大な中国地方の覇者から、本州の西の端・長州(長門国。現:山口県西部)へと追いやられた毛利家は、二百数十年の歳月を経た江戸末期まで、長い長い雌伏を余儀なくされるのです。
しかし、さすがは中国地方の覇者と言うべきか、毛利家にも勇士はおり、あの家康をして一目置かしめる働きを見せたのでした。
彼の名は毛利秀元(ひでもと。甲斐守)。毛利家をして中国地方の覇者に押し上げた毛利元就(もとなり)の曾孫(実際は孫ですが、従兄である輝元に養子入り)に当たります。
天下分け目の大戦さを、ただ見ているなど耐えられない……英雄の血が滾ったのか、今回はそんな秀元の戦さぶりを紹介したいと思います。
目次
出来れば東軍に味方したいが……
さて、関ヶ原の合戦に先んじて、家康につくべきか、それとも反・家康(西軍)の言い出しっぺである石田三成(いしだ みつなり)につくべきか、毛利一族が集まって話し合いました。
「ここは断然、家康に味方すべきだ!」
まだ幼い天下人・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)を補佐するには、文弱な三成では心もとなく、やはり「海道一の弓取り」たる名将・家康ならではならぬ……秀元はそう議論の口火を切りましたが、これを制して広家が言います。
「……お言葉ながら、すでに石田方の使者へ『お味方する』旨を伝え、お屋形様が総大将と決してございますれば……」
何だよ、それを先に言ってくれよ……石田方への前言を撤回すれば毛利の恥、さりとてここで自分だけ一族と訣別して、主君に弓を引くことはできない……秀元は仕方なく西軍への加勢を覚悟しました。
「扨(さて)は力に及ばず。士(さむらい)の一言(いちごん)金鉄より堅し。この期に臨んで、我同意せざるとて變替(へんがい。ここでは前言撤回)に及ぶは、毛利家の恥なり」
※『葉隠聞書』巻十・九七より。【意訳】
では仕方がない。武士の言葉は金より鉄より堅くあるべきで、自分一人のワガママで前言撤回しては、毛利家の恥である。
まぁ、仕方がありません。あの家康とは戦いたくなかった秀元ですが、やると決まった以上は全力で戦ってやろうじゃありませんか。
毛利秀元22歳(当時。天正7・1579年生まれ)、若武者らしい覚悟で関ヶ原へと向かったのでした。
広家の裏切りに気づいた秀元、次の一手は?
さぁ、海道一の弓取りを相手に、天下分け目の大戦さ……関ヶ原の決戦場へやってきた秀元は、家康の後方を窺える南宮山に布陣します……が。
「いつまで弁当を食っておるのだ!早うせんと、戦さが終わってしまうぞ!」
家康と密約を交わしていた広家の軍勢が進路妨害の時間稼ぎ(※)におよんだため、毛利の大軍はいつまで経っても前がつっかえて進めません。
(※)広家は、秀元からの使者に対して「いま昼食の支度をしています」「いま昼食を摂っております」「いまは食休みです」「あ、そろそろお茶の時間ですね」……などと言い訳したため、世の人はこれを「宰相殿の空弁当」と笑ったそうです。
「おのれ吉川……徳川と通じて謀(たばか)ったな!」
であれば最初から中途半端な態度などとらず、徳川に味方しておけば心象もよかったろうに……!とは言え、広家を責め上げるのは戦さの後。今は何とかして前線へ出て、あの家康に一泡吹かせてやりたい……そうだ!
「よし、これより一備(そなえ。部隊)をもって、徳川の背後を急襲する!」
秀元は陣中の精鋭を選抜して一備(数百名から千人前後)を編成し、そのフットワークの軽さで吉川の軍勢をすり抜けて家康の背後へ急襲します。
「かの桶狭間もかくやとばかりの奇襲を、今こそ我らで演じてくりょうぞ!」
「「「おおおぅ……っ!」」」
「暫(しばら)く……暫く、お待ち下され……っ!」
せっかくテンションを上げて出撃した秀元たちに水を差すのは、やはり広家でした。
家康の背後に、秀元率いる一備
「……何じゃ吉川の。もはや邪魔立てはさせぬぞ!」
遮るならば鬼でも仏でも斬り捨てんばかりの秀元を、広家は必死に説得します。
「徳川へ斬りかかりたいお気持ちは解らぬでもございませぬ……しかし、今ここであなたが一戦交えれば、すべては水泡に帰してしまいますぞ!」
「……ぐぬぬ……」
すべてが中途半端ながら、事ここに至ってその中途半端を貫かねば、確かに毛利家を支えてきた広家たちの苦労は水の泡です。
広家のしたことは、間違いなく毛利に対する許しがたい裏切りながら、その根底にあるのは毛利の御家を守らんとする忠義……仕方なく、秀元は妥協することにしました。
「よし、相分かった……『我らからは徳川に手を出さぬ』と約束する」
その言葉にホッとした広家でしたが、秀元は言葉を続けます。
「……が、向こうから手を出した場合は別じゃ。全力で反撃する。よいな!」
「えぇえ……っ!?」
そう言い捨てて、秀元は広家を残して兵を進め、家康の本陣にギリギリの位置まで近づいたのでした。
「何じゃ、あれは?」
家康の本陣に控えていた3万の軍勢は、1,000名足らずの毛利勢を見て笑いました。
「……おおかた、我らの背後を衝いてやろうと勇んで来たが、圧倒的な兵力差を前に尻込みしておるのであろう!」
「さりながら体面を重んじて、逃げるに逃げられぬと来たか!」
「「「どわっはっはっはっは……!」」」
内に秘めた秀元らの闘志を見誤り、ただ数を恃みに笑っていた旗本たちですが、やがてその顔を引きつらせることになります。
これは罠か?それとも……?迷う家康
「お屋形様!我らが陣の後方に、毛利の軍勢が一千ばかり現れましたが、いかが致しましょうか!」
いきなり背後に出現して、攻めかかってくるでも逃げるでもなく、よく見るとジワジワと近づいて来ている……その不気味さに、家康は何かを感じ取ったのでしょうか。
「……率いておるのは、甲斐守(秀元の官職)自身と言うたな?」
「はっ、馬印(うまじるし。大将の目印)より察する限りは……」
偽装している(本人がそこにおらず、別行動をとっている)可能性もありますが、恐らく秀元の性格から馬印は本物……となれば、パッと見こそ少数であっても、毛利の大将である秀元の背後には、万を超える大軍が潜んでいるはず。
「これは罠じゃ。よいか、相手から何をされようと断じて手を出すな!」
「ははっ!」
仮に秀元が本当に少数しか連れていないとすれば、それこそ死に物狂いで反撃してくるはず……後方で騒ぎが起これば、前線にも少なからず影響が出る。ここはひとまず様子を見る判断を下しました。
「……との厳命にございまする!」
「くぅ……あんな小人数、一息にもみ潰してやりたいが……」
「あぁ、また一歩近づいてきた。もう目玉の色が判る距離だ……」
「奴らの目、ギラギラ笑っていがやる……きっと罠があるに違いない……」
「まったく苛立たしい……腹立たしい……」
「手を出すな……絶対に出すなよ……」
ジリ……ジリ……闘志満々、それでいながら逸ることなく、一歩また一歩と距離を詰めて来る秀元の軍勢を背中に、徳川本陣の者たちはさぞやイライラさせられたことでしょう。
いつまでも、どこまでもついてくる……!
しかし、秀元らの奮闘?も虚しく、関ヶ原の合戦は徳川方の勝利に終わり、言い出しっぺの石田三成ら西軍の諸将は、三々五々逃げ散っていきました。
「……なのに、何でアイツらはいつまでも居座ってンだよ!」
「戦さはとっくに終わったんだから、さっさと帰れバカヤロー!」
「上様!もうアイツらヤっちまっていいですか!」
「ならぬ!せっかくの勝ち戦なれば、これ以上の犠牲は無用。我らも引き揚げるぞ!」
「アイツら、まだついて来やがる!勘弁してくれぇ~!」
こうなると、もうどっちが敗軍だか判りません。京の都を目指して凱旋?する家康の軍勢を、つかず離れずジワジワと秀元は追撃?します。
一気呵成に追いかけてくるならともかく、いつ攻めかかってくるかわからない背後を気にしながら引き揚げねばならない殿軍(しんがり)の苦労は、並大抵ではなかったことでしょう。
「「「……もう、助けてくれぇ~!」」」
もういい加減にしつこ過ぎる……転がり込むようにして京都へ逃げ帰った家康の軍勢を確認すると、秀元はようやく引き揚げていきました。
「よし、これにて終了!者ども、勝鬨(かちどき)を上げよ!」
「「「えい、えい……おぉう!」」」
その姿はまるで凱旋……たった一備の小人数で徳川の旗本三万騎を追い回した秀元の豪胆さに感心するやら呆れるやら、家康らは「勇勢無雙(ゆうせいむそう。勇気と勢い並びなし)」と称賛したということです。
エピローグ
♪吉川味噌に毛利豆腐、つけて辛いは宰相……♪
当時、都でこんな唄が流行ったそうです。その意(こころ)は、豆腐みたいにフワフワな甘ちゃんの毛利輝元、毛利の家名に味噌をつけた(面目を失った)吉川広家、そして家康をどこまでも尾行して(跡をつけて)辛い(からい=つらい)思いをさせた山椒(さんしょう)、もとい宰相(※)の毛利秀元。
(※)当時、毛利家は広家と秀元が支えており、共に宰相とされていました。
要するに毛利主従を湯豆腐と薬味に喩えているのですが、実に言い得て妙でしょうか(ちょっと語呂が悪そうですが、どんな節回しで唄ったんでしょうね)。
以上が江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』が伝える毛利秀元の武勇伝。天下人・徳川家康を震え上がらせた痛快なエピソードでした。
オマケ『葉隠』原文
九七 関ヶ原一戦の時分、毛利一族参会して、家康に参るべきや、石田に参るべきやと評議あり。甲斐守秀元「家康公の味方然るべし、我に任せられよ。」と申され候處、吉川進み出で、「石田方に参るべくと、早返答に及びたり。」と云ふ。秀元聞きて、「扨は力に及ばず。士の一言金鉄より堅し。この期に臨んで、我同意せざるとて變替に及ぶは、毛利家の恥なり。」と云ひて、一家の軍勢を秀元引具し、関ヶ原にて家康公の御陣近く備を立て、堅く守りてにらみたり。家康公の御旗本より、この備を見附けて、「まづ毛利一備を討つべし。」と云ふ。家康公聞し召し、「秀元は無雙の勇士なり。此方の手を出すを待ちて、死狂ひすべき様子なり。構へて手向ふべからず。」と深く制し給ふ。石田方一戦に討ち負け、四角八方へ迯げ失せぬ。家康公御陣を全うし、押道堅固にて京都へ赴かせ給ふ。秀元は猶も備堅うして、家康公の御行列の跡に喰ひ附きたり。御旗本衆「すは毛利勢したひ候間、討ち散らし申すべき」由申し上げらる。公聞し召され、「全く手差すべからず。」と再三御とゞめ、京都御著遊ばされ候。秀元京都までしたひ附きて引き退く。その勇勢無雙の大将と、その頃批判したりといへり。又はやり歌に、「吉川味噌に毛利豆腐、つけて辛いは宰相」と諷ひ候由。
秀元は宰相なり。
※『葉隠聞書』巻十より。
※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下 (岩波文庫 青 8-3)』岩波文庫、2011年6月
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