鎌倉駅の東口から若宮大路へ出て、まっすぐ海へ向かう途中、石造りの大きな鳥居(一ノ鳥居)のすぐ脇(海に向かって右手側の歩道)、街路樹の木陰に大きな石塔が並んでいます。
これは鎌倉幕府の御家人・畠山六郎重保(はたけやま ろくろうしげやす)の墓と伝わり、かつてこの辺りで非業の死を遂げたのでした。
早く海へ行きたい気持ちも解りますが、もしお時間が許すなら、しばし合掌いただけましたら嬉しいです。
畠山重保のプロフィール
さて、畠山重保は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも活躍が期待される畠山次郎重忠(じろうしげただ)の嫡男として生まれました。
生年は不詳ながら、腹違いの兄・畠山小次郎重秀(こじろうしげひで)が源平合戦の最中である寿永2年(1183年)に生まれていますから、それよりは年少と見られます。
母親は鎌倉幕府の初代執権である北条時政(ほうじょう ときまさ)の娘、庶兄の小次郎は13人の一人となる足立遠元(あだち とおもと)の娘。
北条氏と足立氏の力関係で、後から娶った時政の娘が嫡男扱いとされたようです。
言い伝えによれば、現代の神奈川横浜市戸塚区汲沢町に館を構え、その名残に六郎丸という地名(小字)が伝わっています。
また、母親は不明ながら畠山小太郎重行(こたろうしげゆき。後に目黒氏を称する)を授かり、その血脈を次世代へつなげました。
源氏門葉・平賀朝雅との対立
そんな重保は「鎌倉武士の鑑(かがみ)」と讃えられた父の気質を受け継ぎ、将来を嘱望されていました。
しかし出る杭は打たれるもので、元久2年(1205年)6月22日、重保は謀叛の濡れ衣を着せられ、暗殺されてしまいます。
「おのれ……もう一度言うてみよ!」
重保はかねてより源氏の門葉(もんよう。一族)で故・源頼朝(みなもとの よりとも)公の乳兄弟に当たる平賀朝雅(ひらが ともまさ)と対立しており、舅である北条時政らによって陥れられたのでした。
「……やれ源氏だ何だとひけらかされますな。我ら御家人一同、ただ鎌倉殿に奉公しておるのであって、その取り巻きのご機嫌までとる暇はございませぬ」
「うぬは、家人の分際で……!」
「家人と申すなら、貴殿もまた鎌倉殿にお仕えする家人の一人に過ぎませぬ。かつて、源氏の血筋に驕って君臣のけじめを忘れた九郎御曹司(くろうおんぞうし。源義経)が、どのような末路をたどったか、よもやお忘れか?」
「ぐぬぬ……」
鎌倉殿ただ一人を除き、どんな身分の血筋の者も、すべて横一列の御家人に過ぎない……そんな頼朝公以来の正論を突きつけられてしまうと、もう朝雅に返す言葉はありません。
そもそも、武蔵国(現:埼玉県+東京都本土)を統治する国司(武蔵守)は朝雅でありながら、実際武蔵の領民たちはみな畠山重忠・重保父子を慕っていたこともあって、何から何まで気に入りませんでした。
「義父上!義母上!ここできっちりとケジメをつけねば、家人どもはますます増長いたしましょうぞ!」
娘婿の朝雅から泣きつかれた時政は、後妻・牧の方(まきのかた)に唆されて畠山父子の粛清を決断します。
※朝雅の正室は牧の方にとって実の娘であり、予てより朝雅に肩入れしていました。
時政の暴走を諫めるも……
「いやいや父上!いったい何を仰せられますか!」
牧の方にいいとこを見せたいあまり、暴走せんとする時政を諫めたのは、先妻の息子たちである北条義時(よしとき)や北条時房(ときふさ)。
「父上……よいですか、ただ平賀めの私情に任せて何の罪もなき畠山父子を謀叛人にでっち上げようなどすれば、かえって我らに非難が降りかかりまする」
「左様。あれほど清廉潔白な男を謀叛人に仕立て上げるには、どれだけの材料を揃えねばならぬことか……畠山殿には我らよりやんわりとお諭し申すゆえ、父上、どうかおとどまり下され」
まぁ確かに、いくら正論ではあっても、少しは遠慮会釈や忖度の一つもあってよかろう……いや、ただでさえ剛直で知られる坂東武者、ましてあの畠山重忠の嫡男なれば、そんな処世が出来るはずもありません。
それでもとにかく、鎌倉幕府にとって欠くべからざる名将・畠山父子をこんな事で失う訳にはいかない……どうにか仲裁しようと試みた義時・時房らでしたが、そんな二人に牧の方が釘を刺します。
「あなたがたは、わたくしを讒者(ざんしゃ。偽りの訴えで他人を陥れる者)にするおつもりか。ただ鎌倉殿を扶翼する平賀殿の名誉を守るため、忠孝の道をまっとうされよ……」
要するに「私を悪者にするつもりか、アンタらは父親の決定に従えばよいのだ」というメッセージですが、こうなるともはや従うよりありません。
「やむを得まい……我らも我が身を守らねばならぬ……」
果たして、まずは重保を騙し討ちにし、その直後に無防備であった(少なくとも合戦の支度をしていなかった)重忠を大軍で取り囲み、攻め滅ぼしたのでした。
エピローグ
「……畠山父子、首尾よく討ち取り申した」
果たして首尾よくであったかどうか、わずかな重忠の手勢を数十倍の軍勢で完全包囲しながら、滅ぼすのに丸一日もかかったことからお察しいただければと思います。
(梶原景時を滅ぼし、比企能員を滅ぼし、ようやく権力の頂点に上り詰めたと申すに、父上はもはや目がかすみ始めた。このままでは、北条が危うい……)
やがて牧の方に唆されて第3代将軍・源実朝(さねとも)公を暗殺し、朝雅を将軍に立てるべく謀議を巡らした罪で時政を出家させ、伊豆国へと追放。朝雅も討ち取って無念を晴らしたのでした。
「鎌倉武士の鑑」として高い声望を得ながら、嫉妬によって滅ぼされた畠山父子。彼らの死によって鎌倉幕府のパワーバランスが変化し、時代はまた新たな局面を迎えるのでした。
ちなみに、重保の最期については「由比ガ浜の浜辺へ誘い出され、取り囲まれて討たれた」「墓の位置にある邸宅を包囲され、攻め滅ぼされた」など諸説ありますが、いずれにしても若き英雄の悲劇を知って、その墓前に手を合わせていただけると嬉しいです。
※参考文献:
石井進 編『別冊歴史読本 もののふの都 鎌倉と北条氏』新人物往来社、1999年9月
埼玉県立嵐山史跡の博物館『秩父平氏の盛衰 畠山重忠と葛西清重』勉誠出版、2012年5月
永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHKブックス、2000年12月
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