鎌倉殿の13人

【鎌倉殿の13人】謀略によって粛清された若き英雄・畠山重保の悲劇

鎌倉駅の東口から若宮大路へ出て、まっすぐ海へ向かう途中、石造りの大きな鳥居(一ノ鳥居)のすぐ脇(海に向かって右手側の歩道)、街路樹の木陰に大きな石塔が並んでいます。

涼やかな木陰にたたずむ英雄の墓。筆者撮影

これは鎌倉幕府の御家人・畠山六郎重保(はたけやま ろくろうしげやす)の墓と伝わり、かつてこの辺りで非業の死を遂げたのでした。

早く海へ行きたい気持ちも解りますが、もしお時間が許すなら、しばし合掌いただけましたら嬉しいです。

畠山重保のプロフィール

さて、畠山重保は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも活躍が期待される畠山次郎重忠(じろうしげただ)の嫡男として生まれました。

武勇のみならず、高潔な人格で声望も高かった畠山重忠。Wikipediaより

生年は不詳ながら、腹違いの兄・畠山小次郎重秀(こじろうしげひで)が源平合戦の最中である寿永2年(1183年)に生まれていますから、それよりは年少と見られます。

母親は鎌倉幕府の初代執権である北条時政(ほうじょう ときまさ)の娘、庶兄の小次郎は13人の一人となる足立遠元(あだち とおもと)の娘。

北条氏と足立氏の力関係で、後から娶った時政の娘が嫡男扱いとされたようです。

言い伝えによれば、現代の神奈川横浜市戸塚区汲沢町に館を構え、その名残に六郎丸という地名(小字)が伝わっています。

また、母親は不明ながら畠山小太郎重行(こたろうしげゆき。後に目黒氏を称する)を授かり、その血脈を次世代へつなげました。

源氏門葉・平賀朝雅との対立

そんな重保は「鎌倉武士の鑑(かがみ)」と讃えられた父の気質を受け継ぎ、将来を嘱望されていました。

しかし出る杭は打たれるもので、元久2年(1205年)6月22日、重保は謀叛の濡れ衣を着せられ、暗殺されてしまいます。

「おのれ……もう一度言うてみよ!」

重保はかねてより源氏の門葉(もんよう。一族)で故・源頼朝(みなもとの よりとも)公の乳兄弟に当たる平賀朝雅(ひらが ともまさ)と対立しており、舅である北条時政らによって陥れられたのでした。

「……やれ源氏だ何だとひけらかされますな。我ら御家人一同、ただ鎌倉殿に奉公しておるのであって、その取り巻きのご機嫌までとる暇はございませぬ」

「うぬは、家人の分際で……!」

「家人と申すなら、貴殿もまた鎌倉殿にお仕えする家人の一人に過ぎませぬ。かつて、源氏の血筋に驕って君臣のけじめを忘れた九郎御曹司(くろうおんぞうし。源義経)が、どのような末路をたどったか、よもやお忘れか?」

「ぐぬぬ……」

鎌倉殿ただ一人を除き、どんな身分の血筋の者も、すべて横一列の御家人に過ぎない……そんな頼朝公以来の正論を突きつけられてしまうと、もう朝雅に返す言葉はありません。

地元でも声望に篤かった畠山父子(イメージ)

そもそも、武蔵国(現:埼玉県+東京都本土)を統治する国司(武蔵守)は朝雅でありながら、実際武蔵の領民たちはみな畠山重忠・重保父子を慕っていたこともあって、何から何まで気に入りませんでした。

「義父上!義母上!ここできっちりとケジメをつけねば、家人どもはますます増長いたしましょうぞ!」

娘婿の朝雅から泣きつかれた時政は、後妻・牧の方(まきのかた)に唆されて畠山父子の粛清を決断します。

※朝雅の正室は牧の方にとって実の娘であり、予てより朝雅に肩入れしていました。

時政の暴走を諫めるも……

「いやいや父上!いったい何を仰せられますか!」

牧の方にいいとこを見せたいあまり、暴走せんとする時政を諫めたのは、先妻の息子たちである北条義時(よしとき)や北条時房(ときふさ)。

「父上……よいですか、ただ平賀めの私情に任せて何の罪もなき畠山父子を謀叛人にでっち上げようなどすれば、かえって我らに非難が降りかかりまする」

「左様。あれほど清廉潔白な男を謀叛人に仕立て上げるには、どれだけの材料を揃えねばならぬことか……畠山殿には我らよりやんわりとお諭し申すゆえ、父上、どうかおとどまり下され」

まぁ確かに、いくら正論ではあっても、少しは遠慮会釈や忖度の一つもあってよかろう……いや、ただでさえ剛直で知られる坂東武者、ましてあの畠山重忠の嫡男なれば、そんな処世が出来るはずもありません。

それでもとにかく、鎌倉幕府にとって欠くべからざる名将・畠山父子をこんな事で失う訳にはいかない……どうにか仲裁しようと試みた義時・時房らでしたが、そんな二人に牧の方が釘を刺します。

「あなたがたは、わたくしを讒者(ざんしゃ。偽りの訴えで他人を陥れる者)にするおつもりか。ただ鎌倉殿を扶翼する平賀殿の名誉を守るため、忠孝の道をまっとうされよ……」

要するに「私を悪者にするつもりか、アンタらは父親の決定に従えばよいのだ」というメッセージですが、こうなるともはや従うよりありません。

「やむを得まい……我らも我が身を守らねばならぬ……」

畠山重忠の最期。Wikipediaより

果たして、まずは重保を騙し討ちにし、その直後に無防備であった(少なくとも合戦の支度をしていなかった)重忠を大軍で取り囲み、攻め滅ぼしたのでした。

エピローグ

「……畠山父子、首尾よく討ち取り申した」

果たして首尾よくであったかどうか、わずかな重忠の手勢を数十倍の軍勢で完全包囲しながら、滅ぼすのに丸一日もかかったことからお察しいただければと思います。

(梶原景時を滅ぼし、比企能員を滅ぼし、ようやく権力の頂点に上り詰めたと申すに、父上はもはや目がかすみ始めた。このままでは、北条が危うい……)

やがて牧の方に唆されて第3代将軍・源実朝(さねとも)公を暗殺し、朝雅を将軍に立てるべく謀議を巡らした罪で時政を出家させ、伊豆国へと追放。朝雅も討ち取って無念を晴らしたのでした。

「鎌倉武士の鑑」として高い声望を得ながら、嫉妬によって滅ぼされた畠山父子。彼らの死によって鎌倉幕府のパワーバランスが変化し、時代はまた新たな局面を迎えるのでした。

鎌倉町青年団による案内石碑。ここでは重保を長子としており、館を包囲されたと説明。筆者撮影

ちなみに、重保の最期については「由比ガ浜の浜辺へ誘い出され、取り囲まれて討たれた」「墓の位置にある邸宅を包囲され、攻め滅ぼされた」など諸説ありますが、いずれにしても若き英雄の悲劇を知って、その墓前に手を合わせていただけると嬉しいです。

※参考文献:
石井進 編『別冊歴史読本 もののふの都 鎌倉と北条氏』新人物往来社、1999年9月
埼玉県立嵐山史跡の博物館『秩父平氏の盛衰 畠山重忠と葛西清重』勉誠出版、2012年5月
永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHKブックス、2000年12月

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【鎌倉殿の13人】石橋山合戦のドラマを演じる狂言「文蔵」と能「七…
  2. 奥州合戦で汚名返上!河村千鶴丸13歳の初陣エピソード【鎌倉殿の1…
  3. 平家討伐「第一の矢」を放った佐々木経高。北条泰時が見届けたその壮…
  4. 政敵を次々と粛清、権力の頂点に上り詰めた北条時政の転落…「牧氏事…
  5. 頼朝公のためならば…危険を恐れず千葉介常胤を味方につけた安達盛長…
  6. 和田義盛(横田栄司)と巴御前(秋元才加)の子供?朝比奈三郎義秀の…
  7. 【マニア向け】大庭景親(國村隼)の兄・大庭景義が懐島権守となった…
  8. 坂口螢火氏の傑作〜 曽我兄弟より熱を込めてを読んで 【曽我兄弟の…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

デリバリープロバイダについて調べてみた 「Amazonの落とし穴」

ネット通販は現在の生活には欠かせません。私は少ないほうだと思うんですが、それでも月に2〜3回…

【なぜトイレは男女別になったのか?】 文京区小2女児殺害事件の惨劇

社会的性別の多様化に伴い、近年たびたび話題となっている「ジェンダーレストイレ」について、皆さ…

キリストは日本で死んでいた? 「不思議な伝承が残るキリスト、モーゼの墓」

今のようなインターネットが普及する前の時代。その土地にだけ伝えられてきた、不可思議な言い伝え…

『島だと思ったら怪物だった』 恐怖の大怪魚たちの伝説

魚、それは島国に住む我々にとって欠かせない食材である。特にマグロのような大型の魚は、可食…

キャリアと格安スマホの違い【2020年には5G通信】

スマートフォン(スマホ)は、iPhoneもAndroid搭載端末も性能的には成熟しました。ち…

アーカイブ

PAGE TOP