時は治承4年(1180年)8月23日、平治の乱より20年の雌伏を経て挙兵した源頼朝(みなもとの よりとも)公の行く手を阻んだ大庭景親(おおば かげちか)。
およそ300騎の頼朝公を3,000騎という大軍で圧倒し、散々に蹴散らした石橋山の合戦。
10倍の兵力差では最初から勝ち目などない……そう思う方がいるかも知れませんが、一矢も報いず逃げ出すようでは、武士の名折れというもの。
(もし逃げ出せば、たとえその場は生き延びられても、もうまともな人間としては扱われなくなってしまいます)
圧倒的な劣勢の中でも死力を尽くして戦うことが、残る者たちの活路を開くことにもつながる……そう信じて武勇を奮った一人、今回は佐奈田義忠(さなだ よしただ)のエピソードを紹介。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では尺の都合で割愛されてしまうのでしょうが、往時はこういう漢(おとこ)たちがたくさんいたことを、どうか知って欲しいと思います。
いざ決戦へ!
佐奈田義忠(真田、佐那田、義貞など表記ゆれ多し)は平安時代末期の久寿2年(1155年)、相模国の豪族・岡崎悪四郎義実(おかざき あくしろうよしざね)の嫡男として誕生しました。
通称は与一(よいち。余一、與市など)、その意味するところは「(十)余り一」すなわち十一番目の子供を意味しています。
父は相模国大住郡岡崎(現:神奈川県平塚市)を領したことから岡崎を称しましたが、与一はその西隣の佐奈田(同市)を領したため、地名を苗字に名乗りました。
ちなみに父の義実は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する相模東部の豪族・三浦義澄(みうら よしずみ)の叔父で、相模西部の豪族であった中村荘司宗平(なかむら しょうじむねひら)に婿入り。
相模国は大きく西の中村党、中央の鎌倉党(大庭景親ら)、東の三浦党に三分されており、東西で姻戚関係を結ぶことによって鎌倉党を挟撃しようと目論んでいました。
たまたま頼朝公が挙兵したことで敵味方に分かれたのではなく、かねてより鎌倉党を潰そうとしていた中村・三浦の両党が窮地に陥った頼朝公を担ぎ上げ、挙兵させた側面もあります。
さて、話を与一に戻しますと、頼朝公が挙兵した治承4年(1180年)までに子の岡崎実忠(さねただ)を授かり、ますます奉公に励もうと山木判官兼隆(やまき ほうがんかねたか)の襲撃に続き、石橋山の決戦に臨みました。
狙うは大将の首級一つ!
「のぅ余一。その装束は少し目立ち過ぎやすまいか。敵に狙われぬよう、もそっと暗い色のものに着替えてはどうか」
華美な装束に身を包む与一の身を案じた頼朝公はそう勧めますが、ここが命の捨てどころと意気込む余一は答えます。
「いえいえ、戦さ場は弓矢とる身の晴れ舞台になれば、過ぎたることはございますまい」
男は華々しく散ってナンボ、そう覚悟してこそ血路も拓ける……そんな若武者らしい心意気で余一は先鋒を務め、白葦毛の名馬に跨ると、敵方へ向かって大音声で呼ばわりました。
三浦悪四郎義實が嫡子、さなだの余一義忠生二十五歳、源氏の世を取給ふべき軍の先陣なり、我と思わん輩は出てくめとてかけ出たり……
※『平家物語』より
【意訳】我こそは三浦(岡崎)悪四郎義実の嫡男、佐奈田余一義忠25歳、源氏の天下獲りの先鋒である。我と思う者は出てきて組討(くみうち)せよ、と駆け出して行った……。
これはよき敵に巡り合ったと喜ぶ大庭景親は弟の俣野五郎景久(またの ごろうかげひさ)はじめ、鎌倉一族の長尾新五爲宗(ながお しんごためむね)、その弟の長尾新六定景(しんろく さだかげ)ら73騎で迎え撃ちます。
大雨の降る闇夜の乱闘で敵も味方も定かならぬ中、義忠は自分の側に残っている老僕の文三家安(ぶんぞう いえやす)に「自分が敵に組みかかったら助太刀するよう」申しつけると、程なく敵と遭遇。
「この野郎っ!」
巧みな体術で敵をねじ伏せ、たちまち首を掻き切った余一でしたが、それは狙っていた大将の大庭景親、俣野五郎ではなく岡部弥次郎(おかべ やじろう)。
「此度の戦さ、大将首を獲る以外に勝機はない」
とばかり、その首級を谷に捨ててしまいました。
「さぁ、次だ次!」
まさに暗中模索していると、今度は目当ての俣野五郎と遭遇。喜び勇んだ余一は躍りかかり、たちまち馬から転げ落ちて組んず解れつ。
ゴロンゴロンと上が下に、下が上にと転げ回る両雄を前に、文三も俣野五郎の郎党も手が出せずにいました。
どっちがどっち?迷った新五は……
すると、向こうから長尾新五が加勢にやって来ます。
「上が敵か?下が敵か?」
俣野五郎の上に馬乗りになっていた余一ははとっさに俣野五郎の声真似をして「上ぞ景久、長尾殿あやまちすな(上が景久=味方だ、間違えるな!)」と新五に呼びかけたところ、俣野五郎もすかさず「下にて下ぞ景久、長尾殿あやまちすな(下が景久だ)」と訂正。
互いに「「俺が景久だ」」と言い争いが始まり、どうにも判断がつかなかった新五は、
(そう言えば、与一は鎧に毛皮をまとっていたな……)
と思い出し、とりあえず手探りで鎧の毛皮を確認。バレてしまった与一はすかさず新五を蹴飛ばし、俣野五郎の首を掻き切ろうとしましたが、脇差が血糊で固まってしまい、鞘から抜けません。
(さっき、岡部弥次郎を討った時、しっかり拭っていなかったか……)
そこへ新六が駆けつけて余一を羽交い絞めにし、態勢を立て直した俣野五郎がその首を掻き切りました。
「あぁ、ご主人……!」
余一を子供の頃から育ててきた文三は、最早これまでと死力を尽くして奮戦し、やがて稲毛重成(いなげ しげなり)の軍勢に討たれたと言います。
かくして石橋山の合戦は頼朝公の敗北に終わり、窮地を脱して捲土重来を果たすのは約2ヶ月後となるのですが、そのエピソードはまたの機会に。
エピローグ
月日は流れて建久元年(1190年)1月20日、頼朝公は三島参詣の帰りに石橋山へ立ち寄り、与一と文三の墓に詣でて哀悼の涙を流したと言われています。
そして二人をはじめ石橋山に散華した御家人たちの菩提を弔うべく證菩提寺(しょうぼだいじ。現:横浜市栄区)を建立、建久8年(1197年)に完成しました。
与一の討死した場所には彼を祀る佐奈田霊社が創建され、地元では「与一が文三を呼ぼうとしたところ、喉に痰が絡んで声が出ずに討ち取られてしまった」との伝承があることから、喉の痛みや咳などに霊験あらたかということです。
豪傑・俣野五郎をあと一歩のところまで追い詰めながら、惜しいところで命を落とした佐奈田与一義忠。
その悲劇性が人気を呼んだのか、俣野五郎との格闘シーンは浮世絵などの人気テーマとなり、多くの作品が現代に伝えられています。
※参考文献:
- 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年2月
- 野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年6月
- 細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
- 栄区地域振興課『栄区郷土史ハンドブック』横浜市、2015年3月
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