戦国時代

石見銀山とは 【日本最大の銀山 ~戦国武将たちの壮絶な争奪戦】

石見銀山とは

石見銀山とは

画像 : 石見銀山 清水谷精錬所跡 wiki c Naokijp

石見(いわみ)銀山は島根県太田市にあり、戦国時代から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山である。

最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとされ、その大部分を占めたのが石見銀山だとされている。
石見銀山は別名「大森銀山」とも呼ばれ、江戸時代初期には「左摩銀山」とも呼ばれていた。

明治元年に民間の田中義太郎が経営権を所得したが、明治5年の浜田地震の被害を受けてしばらく休山し、明治19年から藤田組が再開発を続けたが銅の価格暴落や坑内の環境悪化などで大正12年に再び休山、戦争時は銅の再産出を試みたが、水害によって失敗し昭和18年に完全閉山となった。

平成19年(2007年)に石見銀山は世界遺産として登録され、観光の超目玉となっている。

銀山争奪戦

石見銀山の発見については正式な記録はないが、鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が銀を発見したという伝説が『石見銀山旧記』に記されている。

その後、この地を支配していた大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、博多の大商人・神谷家が開発し領主・大内義興が支援し銀を掘り出したとされている。
大内義興の死後、その息子・義隆が九州経営に気を取られている間に地方領主の小笠原長隆が銀山を奪ったが、その3年後に再び大内氏が奪還した。

日本有数の銀の産出量を誇ったことから、天文6年(1537年)に出雲の尼子経久が石見に侵攻し銀山を奪う。

石見銀山とは

画像 : 尼子経久

2年後には再び大内氏が奪還し、その2年後には尼子氏が再び銀山を占領するという、大内氏と尼子氏による壮絶な石見銀山争奪の戦いが続いた。

大内義隆の死後は、毛利元就が台頭し尼子晴久との間で「忍原崩れ」「降露坂の戦い」といった争奪戦が繰り広げられたが、いずれも尼子氏の勝利に終わった。
だが、永禄4年(1561年)に尼子晴久が急死すると、跡を継いだ尼子義久は毛利元就と「石見不干渉」という和議を結んだ。

石見銀山とは

息子たちに「三矢の教え」を説いた毛利元就だが、このエピソードを後世の創作とする説も。

最終的には毛利氏が石見銀山を完全に手中に収め、近くの山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が入ったが、朝廷の御料所として毛利家は献呈してしまう。
しかし、実質的には石見銀山(大森銀山)は毛利氏が管理し、天正9年(1581年)には年間に3万3,072貫の銀の産出があり、織田信長との戦いに充てたという。

その後、毛利輝元豊臣秀吉に臣従することになると、銀山は秀吉と毛利氏の共同管理となり、秀吉の天下統一事業や朝鮮出兵の軍資金として充てられた。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長5年(1600年)に石見銀山を天領とし、翌年には銀山奉行を置き江戸幕府の貴重な財源として重宝された。
だが、石見銀山も元禄期になると次第に産出量が減り、江戸時代末期にはほとんど産出出来なくなってしまう。

幕末の慶応2年(1866年)第二次長州戦争において幕府は長州軍を食い止めることが出来ず、石見銀山は長州藩に支配されることになり幕府の銀山支配は終焉した。

明治新政府の廃藩置県において長州藩から大森県が銀山を支配することになり、民間の手に委ねられることになった。

昭和になって銅の再産出を試みるも、昭和18年の水害で坑道が水没し、完全閉山となったのである。

最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したと推定されている。石見銀山はそのかなりの部分を占めていたのである。

関連記事 : 佐渡金山とは 【当時世界最大級の金山 ~上杉謙信の領土ではなかった】

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 直江兼続 ~義と愛の武将【上杉景勝の重臣】
  2. 人生マイナスからのスタート…逆境を乗り越え徳川家康に仕えた戦国武…
  3. 【大河ドラマを楽しむための武家用語解説】 外様、譜代、一門、家老…
  4. 上杉景虎の悲劇 「本当に美男子だったの?戦国時代のイケメン武将」…
  5. 抜刀、居合術の開祖・林崎甚助【奥義は敵討ちから生まれた】
  6. 昔の女と芋茎の味噌汁…天下無双の傾奇者・前田慶次が綴った旅の一幕…
  7. 最後まで美濃斎藤氏を支え、義に殉じた謎多き武将・長井隼人佐道利の…
  8. 長篠城へ行ってみた【日本100名城】

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

豊臣秀吉の墳墓と神社を破却せよ! ~家康と江戸幕府の非情すぎる行動とは

豊国乃大明神として神になった豊臣秀吉1598(慶長3)年8月18日、豊臣秀吉は、伏見城で…

日本刀(古刀)と戦艦大和は、現在の技術では作れないロストテクノロジーだった

ロストテクノロジーとは、過去に実存した優れた技術のことで、何らかの理由によって現在は存在しない技術の…

鍾会 〜自惚れから身を滅ぼした策略家 【蜀を滅ぼすも最後は自滅した超エリート】

野望高き天才263年、もはや三国の一角を占める国家の蜀(蜀漢)に興隆の兆しがないと見た魏…

『水滸伝』の関勝、実在の武将だった「関羽の子孫?設定からしてフィクションっぽい」

棗(なつめ)のような赤い顔から伸びる三牙のヒゲ(口の髭、頬の髯、顎の鬚)……どこかで見たような顔だと…

【ブギウギ】 “夜の女”「パンパン」たちの声援に真摯に応えた笠置シヅ子

『東京ブギウギ』で一躍スターになった笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)。彼女のファンクラブには作…

アーカイブ

PAGE TOP