日本史

イメージと異なる中世の百姓 「年貢が厳しければ全員で他所へ逃げていた」

江戸時代の百姓と云えば、主に「農民=農業従事者」を指す言葉に使われる。

ところが百姓は必ずしも「農業に従事する者」とは言い切れないのである。

中世において、百姓とは何者であったのか?

言葉の意味から解く百姓とは?

イメージと異なる中世の百姓

画像:農人(百姓)『和漢三才図会』寺島良安(1712年頃)

百姓」という言葉は、元々漢語から由来し、一般庶民を表していた。

古くは、儒教を興した孔子と弟子達の言動を記録した「論語」に頻繁に記載がある。
日本においても「一般庶民」或いは「万民」を意味する意味として使われていた。

「百姓」は、「おおみたから」と大和言葉で訓読みされ、天皇が慈しむ一番の宝・天下万民の意味を持っている。
因みに室町時代に寺子屋で使われた教科書には、神武天皇の太子4人の内1人は百姓であると記された「庭訓往来」がある。

「百姓」は、後に様々な職業に携わる特別なポジションを指すようになった。

つまり、荘園領主等土地の支配者が、年貢や労役を課す対象者を示す呼び名である。
農業を運営する者だけでなく、手工業や漁業・商業の経営者も含んで言い表す。

百姓は農民」という考え方が一般的になった江戸時代でも、彼らは村落で鍛冶屋や大工、漁師、時には神職や僧侶さえ勤めていた。

中世以降「百姓の務めは農業である」と云う思想や考え方が行き渡ったが、実態とはほど遠いモノだった。

そして明治時代からは、百姓は農民を意味する言葉となった。

中世の百姓が農業従事者のみでない理由

画像 : カラムシ畑 福島県昭和村 wiki c Qwert1234

百姓と農民が同じ意味として浸透した江戸時代でさえ、彼らは現代以上の兼業者であった。
しかも中世では、多くの職種が百姓に含まれている。

ではなぜ百姓は、様々な職種をまとめて表していたのだろうか。
それは中世の年貢が江戸時代のように米に偏っていない事が挙げられる。

中世の年貢で代表的なモノは、米・絹・布(麻・苧・葛・藤・楮等の織物)だった。
平安後期から鎌倉初期では、貨幣の代わりに用いられたのが上記三品だったのである。

では、他にはどんな年貢があったのだろうか?

油や紙・塩・板材や特産品の馬や牛もあれば、金・漆・筵(むしろ)・鮭・炭や薪などもあった。
地域事情に合わせた多種類の年貢の中身を考えると、農業以外の物も多くあったのである。

例えば、布を年貢として納める場合、織物を作るには簡易な織り機が必要であろう。
しかも、年貢となれば沢山の布を織らねばならない。

農業と兼業であっても、織り機を作る職人がいたと考えるのが普通である。
彼らは村落に住み、織り機の調整・修理も日常的に行っていたハズだ。

そして織り機を作る木材の切り出し・加工に関わる道具を作る鍛冶屋もいなくてはならない。
京都や鎌倉まで年貢を届ける運搬も不可欠だ。

河川路や海路・陸路を利用し、年貢を運ぶ者達が百姓の中にいたと考えなければならない。

百姓の権利と荘園領主に求められたモノ

イメージと異なる中世の百姓

画像:「伊予国弓削島荘領家地頭相分差図」

中世の百姓の定義とは、どのようなものだったのだろうか?

・主人を持たず、誰にも従っていない自由民
・田畑作請けをすることもあるが、自立した経営者
・年貢や領主から課せられた労務を負う、村落の構成員

以上3点が百姓と云える身分で、荘園領主に従属している訳ではなかった。

百姓達は村落で連帯し、領主に対して労務の免除などを要求している。

例えば、1313年(正和2年)には、伊予国(愛媛県)弓削島荘の代官の違法行為に関する訴えが、荘園領主・東大寺に対して起きている。

訴状には「年貢を多く取り農作業に使う牛を強制徴収する行為」への訴えが記されており、改善がない場合は年貢を納めた後で逃散 : ちょうさん(田畑を捨て他所へ逃げる百姓の闘争手段)する決意も表されている。

百姓の最後の闘争手段「逃散」は、鎌倉時代の三代執権・北条泰時も認めている。

「御成敗式目」の42条に「年貢をきちんと納めた後で百姓達がその地に残るか去るかは、彼らの自由である」と定められているのである。

つまり、荘園領主は非法行為で年貢の取り立てをする荘官(現地の管理運営職)がいると訴えられ、百姓達に集団で逃げられて収入を失う可能性があったのである。

それでは荘園領主が百姓たちに求められたものは何だろうか?

それは「撫民 : ぶみん」、いわゆる民を労わり大切に生かす事を要請されたのである。

では、具体的な「撫民」策とはどのようなものだったのだろうか?

・田畑の灌漑用水路の整備と修復
・種もみの貸し与え
・年貢の軽減
・非法を行う荘官や地頭(鎌倉幕府が朝廷に認可させた荘園管理と支配を担う職)を代えたり、幕府や六波羅探題に彼らの行為停止を求める訴訟を起こす

荘園領主は、主に上記の行動が求められた。

実際に荘園領主が百姓の訴えを認め、地頭を訴えた例はキリがない程あったという。

終わりに

イメージと異なる中世の百姓

画像:中世の惣村の面影を残す琵琶湖のかくれ里、菅浦集落の境に立つ四足門 photoAC rupann7777777

鎌倉時代も後半になると二毛作が普及し、農業の効率・革新が行われ生産力が上がった。
このことで百姓は土地に対する権利を高め、自立性が向上した百姓たちが村落で連携し始めた。

あちこちで、百姓を村落の一員として認める「」(惣村)が作られ、「惣」が年貢納入を直接行う「地下請」(じげうけ)が誕生した。
なお、「地下請」は別名百姓請(ひゃくしょううけ)とも云われる。

「地下請」の場合、「惣」は毎年一定額を年貢として領主へ納めていた。
「惣」内で年貢割り当てを決め、履行出来ないメンバーには罰則も定めている。

領主と地頭が契約して年貢を請負う「地頭請」も同じように一定額の年貢を納めていたが、地頭は百姓に対して横暴的な搾取をすることも多かったという。

例えば、紀伊国阿氐河荘(和歌山県有田郡有田川町付近)の地頭・湯浅宗親は、百姓申状(中世農民の訴状)で六波羅探題に訴えられている。

百姓達は、唯一の闘争手段「逃散」からさらに一歩踏み出し、「惣」という形で直接領主と交渉して年貢請負権を獲得するまで力をつけたのである。

参考図書
日本の中世8「院政と平氏、鎌倉政権」

 

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