前編では、お家取り潰しとなった赤穂藩の財務整理や藩士の退職金など、具体的にどれくらい費用がかかったのかについて解説した。
多くの困難を乗り越えてなんとか赤穂藩の財務整理を終えた大石内蔵助だが、この後、歴史的にも有名な「吉良邸討ち入り」を決行する。
この時点での残金は金691両・約8,292万円であった。
軍資金の使い道
内蔵助は元赤穂藩士2名を江戸に派遣して、幕府収城目付・荒木政羽らに浅野家再興と吉良の処分を求めた嘆願書を届けた。このようにお家再興のための工作の旅費など、多額な出費をしている。
内蔵助は亡き主君・内匠頭の供養塔と墓の建立のために、京都の山科の瑞光院に金100両・約1,200万円を寄付している。
内蔵助は、ここ以外の寺にも内匠頭の菩提を弔うために多額の寄付をし、その総額は金127両3分・約1,533万円だった。
こうして元の資金・金691両(約8,292万円)-約1,533万円で、残金は金563万両1分・約6,759万円となった。
内蔵助は亡き藩主の菩提を弔う資金として元金の約2割近くも使ってしまったが、この時点ではこれらのお金を討ち入りに使おうとは考えてはいなかったようである。
内蔵助が目指していたのは、あくまでも内匠頭の弟・浅野大学を内匠頭の後継ぎにして浅野家を再興させることであった。
内蔵助本人は、親戚を頼って京都郊外の山科に移住した。
そこで家族と暮らす土地と家を購入し、そこを拠点として全国各地に散らばった赤穂浪士たちと連絡を取り合いながら、浅野家の再興を目指そうとしていたのである。
浅野家再興を目指していた大石内蔵助
その様子は内蔵助がつけていた帳簿「預置候金銀請払帳」から見て取れる。
浅野家再興のための嘆願の口ききを京都の僧にしてもらうために、1両1分・約15万円を渡している。
更に時の将軍・綱吉が信頼を寄せる大僧正・隆光に接触するために2度に渡って使者になってくれた僧に、江戸での工作費と往復の交通費として合計金45両・約540万円、また幕府の役人たちへの接待や贈り物にもお金を使っている。
お家再興を目指すためには、それなりの伝手(つて)が必要で工作費や交際費がほとんどであり、使ったお金は総額で金65両1分・約783万円であった。
このことからも当時の内蔵助の狙いは、あくまでも浅野家のお家再興であったことが良く判る。
この時点での軍資金は、お家再興の工作費などの総額が金65両1分・約783万円で、残金は金498両1分・約5,967万円であった。
討ち入りの話が決まる前に今の価値で、すでに2,000万円以上も内蔵助は使ってしまっていた。
また、帳簿を見ると特に支出しているのが上方~江戸への間の旅費であった。
内蔵助は江戸に使者を出すための旅費(日当・飲食・宿代など)を、1人につき金9両銀8匁・約109万円も旅費として支出していた。
その後も上方にいた赤穂浪士を次々と江戸に派遣し、その旅費を支出しており、総費用は金78両1分2朱、今の価値で約1,000万円ほどであった。
これは元禄14年9月頃~11月頃までの支出だと推測されている。
その訳は、内蔵助を始めとする浅野家再興を目指す穏健派と、堀部安兵衛らを中心とする吉良邸討ち入りを主張する強硬派とに2分していたためである。
強硬派を説得しようと何度も上方から江戸に使者を送り込んだために、多くの旅費がかかっていたのだ。
そんな中、元禄14年(1701年)8月19日、なんと仇である吉良上野介が呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸のはずれの隅田川を越えた本所に屋敷替えになった。
これに沸き立ったのが、江戸の強硬派たちだった。
「江戸城から遠い屋敷に移したということは、幕府も暗に仇討ちをせよと言っているのではないか!」
と堀部安兵衛らは歓喜した。
そして
「上方(内蔵助ら)は煮え切らぬ!上方に行き説得し、急ぎ討ち入りの算段をつけよう」
と血気にはやった。
強硬派たちとの交渉
そうした江戸の動きを知った内蔵助は、進藤源四郎や大高源吾を江戸に送った。
その旅費の内訳は宿代が1泊約350文・約1万円、駕籠代金や食費などが1日約500文・約1万5,000円、大井川の川渡が約100文・約3,000円で山科から江戸まで約14日間かかるため、片道の旅費は1人あたり約3両・約36万円であった。
しかし、旅費をかけて説得のために江戸に行った進藤たちは、強硬派と話をすると意気投合してしまい、強硬派に鞍替えしてしまったのである。
内蔵助は上方から次々と説得する人を送るが、江戸の強硬派に皆取り込まれていった。
これでは旅費がかさむばかりである。とうとう内蔵助は堀部らに直接手紙を送ることにした。
内蔵助は「討ち入りするのに、より良い時期が来るまで自重するように」と釘を刺したのである。
それでも不安にかられた内蔵助は、お供の者を連れて自ら江戸に向かって出発した。
その費用は金23両3分銀20匁・約289万円もかかっている。
これで江戸の強硬派をなだめるための旅費が総額で、金78両1分銀42匁・約948万円もかかり、残金は金419両・約5,028万円になってしまった。
江戸についた内蔵助は強硬派と話し合ったが、強硬派は「内匠頭の一周忌、来年の3月までには討ち入りをしたい」と主張した。
内蔵助は「討ち入りの期日を決める必要はない」と返答したが、堀部らは「期日が決まらないと決心が固まらない」と反論した。
そこで内蔵助は「翌年の春にもう一度相談しよう」と提案した。
江戸で集まれば目立つので、京都の山科で話し合うことを決定し、内蔵助は先延ばしに成功する。
強硬派たちは「内蔵助が討ち入りに同意した」と納得したのである。
内蔵助は江戸の強硬派の暴発を抑えることには成功はしたが、その一方で討ち入りをするという方向に向かっていくことになってしまったのだ。
かさむ出費
この段階で内蔵助は、江戸での強硬派たちのための屋敷を金70両・約840万円で購入した。
しかしその屋敷の近くで火事が起き、修繕が必要となった。
しかもその購入した屋敷は、幕府の御用地として接収されることになってしまった。
結局、約840万円は無駄金となり、これで軍資金の残金は金360両・約4,320万円となった。
この後、帳簿によく出てくるのが「旧赤穂藩士たちへの援助金」という支出である。
浪人生活で困窮する旧藩士たちへの生活援助金は、総額で金132両1分・約1,587万円で、これで残金は金227両3分・約2,733万円となってしまった。
生活が困窮していた江戸の強硬派たちは内蔵助に討ち入りの決行を急ぐように訴え、元禄15年(1702年)2月15日、京都の山科で会合が開かれた。
堀部らは「一周忌を目途に行動を起こすべきだ」と内蔵助に詰め寄る。
すると内蔵助は「まあ落ち着け、まずは何よりもお家の再興が大事だ。大学様の処遇を見極めてからにしろ」と説得した。
すると堀部らは「それまでは待つが、もう限界が来ている」と返した。
内蔵助は「分かった」と了承するしかなかったのだ。
この会議の後、内蔵助は嫡男・主税を残し、妻や子供たちを妻の実家に帰している。
そして内蔵助は京都の一力茶屋で遊興にふけるようになった。
その費用は自腹だったが、内蔵助もある程度覚悟を決め「お金を残しても仕方がない」と考え豪遊したと思われる。
討ち入りの決定
元禄15年(1702年)7月18日、浅野内匠頭の罪に連座し、閉門とされていた弟・大学の処分は「松平安芸守(広島藩)へのお預かり」と幕府から通達された。
これで内蔵助が願っていた浅野家再興の夢は完全に潰えてしまった。
お家再興が絶望的となったのを受けて内蔵助は、10日後の7月28日に京都の円山に堀部らを呼んで会議を開き、吉良邸への討ち入りを宣言した。
8月になると内蔵助は全国に散らばった赤穂浪士たちに連絡を取るように、用賀友信と大高忠雄を派遣した。
「討ち入りが決定した」との手紙を同志たちに送った飛脚代も相当かかった。
実は内蔵助は派遣した2人に、ある書類を持たせていた。
それは討ち入り実行時に参加すると誓った旧藩士120人への盟約の誓約書である。神文を出させていたので、内蔵助はその神文の署名部分だけを入れて2人に託したのだ。
それを命じられた2人は神文を出した旧赤穂藩士たちに「内蔵助殿は当初の計画を取り止めて妻子を養うために仕官することになった」と、内蔵助に命じられた通りに嘘を伝えた。
さらに「皆様も勝手にするがよい。この神文はお返しする」と言ったのである。
この言葉に腹を立てて「それでも仇討ちをしたい」と言った者だけに真実を告げ、味方に引き入れたという。
これは内蔵助が意志の固い者だけを選抜するという意図であり、「死にたくない者は脱盟してもよい」とそれとなく促し、それでも死の覚悟がある者を確認するためであった。
また、むやみやたらに大勢が江戸に下ると目立つので、それを避けたいという気持ちもあった。
その結果、残った赤穂浪士はおよそ50人、内蔵助はその者たちに支度金として1人に金3両・約36万円を渡した。
こうして2人の派遣代や飛脚代、支度金などで内蔵助の手元に残った残金は金60両・約720万円とわずかになってしまった。
そして、吉良邸討ち入りの約1か月前の11月5日、討ち入りを決意した内蔵助は京都の山科からおよそ1か月をかけて江戸に到着し、日本橋石町の隠れ家に入った。
この時、わずか金60両となっていた軍資金から借家住まいの同志の家賃を補助し、更に1人あたり1か月の食費として金2分・約2万円を支給した。
これで軍資金の残金はわずか数両となり、残りのお金で弓矢・槍・長刀など討ち入りに必要な装備のすべてを購入しなければならなかった。
これら装備の総額は金12両・約144万円で当然残金は無く、それどころか-(マイナス)金7両1分・約87万円が足りなくなった。
あれだけあった軍資金はマイナスになってしまい、その補填は内蔵助が自分のお金を使ったのである。
11月29日で内蔵助は、「預置候金銀請払帳」を締めた。
その内訳は以下の通りである。
仏事費用 1,533万円
お家再興工作費 783 万円
江戸屋敷購入費 840 万円
旅費及び江戸滞在費 2,976万円
会議・通信費 132 万円
生活援助費 1,587万円
討ち入り装備費 144 万円
その他 379 万円
支出総額 約 8,369 万円
結果は、マイナス-約77万円、これは内蔵助が自腹を切って補填した。
こうして赤穂浪士47名は、12月14日に吉良邸に討ち入ることに決定した。
そして内蔵助は同志たちが集った時に「それぞれの手間賃などは12日までにしっかりと始末をつけておけ。不測の際には申すがよい」と言ったのである。
つまり「お金が無い者たちにはまた自腹を切る。討ち入りにあたっては身辺をきれいに整理しておくように」ということだった。
12月13日の夜、内蔵助たちはわずかに残った手持ちの金を持ち寄って酒を酌み交わしたという。
討ち入り決行
江戸城松之大廊下の刃傷事件から1年9か月後の12月14日の夜、赤穂浪士47名は吉良邸に向かった。
そして日付が変わった12月15日の午前4時半頃に討ち入りを決行し、見事に吉良上野介の首を討ち取り、主君の仇討ちを果たした。
内蔵助は12月14日の夜に「預置候金銀請払帳」を、亡き主君の妻・瑶泉院のもとに届けさせた。
討ち入りの計画が露見してしまうことを恐れ、ギリギリになってから渡したとされている。
細かく帳簿につけていた内蔵助は、最初からこの帳簿を瑶泉院に渡すつもりだったという。
主君の仇討ちのためとはいえ瑶泉院の私財に手をつけてしまったために、その使い道の報告と償いの意味もあったと思われる。
実は瑶泉院の化粧料は金1,000両あったが、そのうちの金300両だけを拝領して討ち入りのための費用に充てたとされている。
おわりに
吉良邸討ち入りまでにかかった金額を細かく記した帳簿「預置候金銀請払帳」
これを見ていくと討ち入りまでの1年9か月が、どれほど大変だったのかが良く分かる。
「忠臣蔵(赤穂事件)」までの使い道の内訳を見ると、内蔵助を始め四十七士たちの葛藤や苦労など様々な想いを感じ取ることができるのである。
関連記事 : 忠臣蔵(赤穂事件)は、一体いくら位のお金がかかったのか? 〜前編 【赤穂藩の取り潰し費用】
参考文献 : 「忠臣蔵」の決算書
何この記事凄いじゃん、この発想と細かく調べたrapootsさんは神ですか?