ワインを初めて飲んだのは織田信長だった?
新しい物好きだったことでも有名な織田信長は、日本で最初にワインを飲んだ日本人であると言う説がある。
イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが献上したとされ、ザビエルは日本に最初にキリスト教を伝えたことでもよく知られている人物だ。
飲んだとされるのは赤ワインで、当時の名前で「珍陀酒(ちんたしゅ)」というものである。赤ワインをポルトガル語で発音するとヴィニョ・ティントというものになる。そのティントという発音の響きから日本語風にアレンジが施されて「ちんた」と呼ばれるようになったという。
しかし日本におけるワインらしきものに関する初めての文献は、1466年(文正元年)室町時代中期に、京都の相国寺鹿苑院内の蔭凉軒主が記録した公用日記『蔭凉軒日録』である。ここには「南蛮酒を飲んだ」と記されており、これはワインのことではないかとされている。
1483年(文明15)の『後法興院記』にも、関白近衛家の人間が「ちんた」を飲んだという記録がある。
その後にザビエルが日本にやってきて、キリスト教の布教活動と共に地域の大名たちにワインを献上し、徐々に普及していった。
つまりザビエルが伝えるよりずっと前に日本にワインは上陸しており、信長がワインを飲んだという文献も存在していない、というのが真相である。
女性用下着を初めて手にとったのは豊臣秀吉だった?
日本人として最初にヨーロッパの女性用下着を手にすることになったのは、豊臣秀吉だったという説がある。
ポルトガル人が日本に持ち込んだ品物の中に含まれており、秀吉が手にしたとされている。
しかし当時の伝統的な和服姿の日本女性には受け入れられなかったのか、日本人女性による着用の記録は残っていない。また当時の西洋においても化学繊維はまだなく、現代のものとは別種のものだったと見て良い。
年月が経過した幕末頃になると、福沢諭吉が著したとされる『西洋衣食住』において、ヨーロッパの女性たちが着用していた下着のメリットについて詳しく紹介され、富裕層の女性たちの間で舞踏会などの際に着られるようになったという。
一般階級の人々に広く着用されるようになったのは、昭和時代の初め頃である。
天ぷらを初めて食べたのは徳川家康だった?
徳川家康が「天ぷら」を食べて、その後に腹痛をおこして3ヶ月後に亡くなったというエピソードは有名である。
しかし家康が実際に食べた天ぷらは、現代の「唐揚げ」に近いものだったという。また死因は「胃がん」という説が濃厚で、天ぷらが直接的な原因ではないとされている。
文献上の「天ぷら」の初出は、1669年に書かれた京の医師・奥村久正による『食道記』の記述である。
「てんふら、小鳥たたきて、かまくらえび、くるみ、葛たまり」
これは、小鳥のタタキや鎌倉海老を餡掛けにしたものらしい。しかし、この時点では「てんふら」が揚げ物とは書いていない。
一方、江戸では同時期に衣揚げという言葉が出ている。
1671年の『料理献立集』において、
「どじょうくだのごとくきり、くずのこたまこを入、くるみ・あふらにてあげる」
この料理がどのようなものだったのかは不明だが、油で揚げると記述されている。
少なくとも、江戸時代の初期には天ぷらの原型「らしきもの」が現れたようだ。
そもそも「天ぷら」らしきものは、16世紀の中頃の安土桃山時代に鉄砲と共にポルトガルから長崎に伝わったとされている。江戸時代に「てんふら」の文字が確認される約100年も前に伝わってきていた。
ただ、この時代の天ぷらは小麦粉に砂糖や塩、酒を加えてラードで揚げたとあるので、現在のフリッターに近いものだったと推測される。
つまり、当時の天ぷらはあくまで「らしきもの」であり、家康が食べたとされる時期より前から日本に伝わっていた、というのが真相である。
餃子を初めて食べたのは水戸光圀だった?
日本人として初めて餃子を食べたのは、水戸黄門としても有名な徳川光圀であるとされている。
記録上、初めて餃子のような食べ物が記述されたのは、1707年に刊行された『舜水朱氏談綺』である。
この書は、明から亡命して長崎に滞在していた儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)が門弟たちへの質問に答えたものを、光圀が編纂させたものである。
この書によると、朱舜水が「福包」と呼ばれる料理を光圀にふるまったとされている。ただし中国では「水餃子」が一般的であり、この「福包」の餡には鴨肉や松の実、クコの実などが使われており、現代日本の焼き餃子とは違ったものだと考えられている。
参考文献 : キリンホールディングス(酒と飲料の文化史)、蔭凉軒日録、舜水朱氏談綺
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