エピローグ
九度山で朽ち果てる運命にあった真田信繁は、大坂冬の陣により再び歴史の表舞台に返り咲いた。
豊臣秀頼により大坂城に迎えられた幸村は、今までの逆境を跳ね返すかのような活躍をみせる。
大坂城唯一の弱点とされた南側に出丸・真田丸を築き、押し寄せる徳川幕府の大軍を防ぎ通した。それはあたかも父・真田昌幸が、上田籠城戦でみせた輝きと同じだった。
失意のなかの九度山蟄居生活
関ケ原の合戦の地域戦として、上田城で徳川秀忠の大軍に煮え湯を飲ませた真田昌幸・信繁父子であったが、関ケ原合戦は徳川家康の東軍が勝利した。
石田三成・大谷吉継は歿したが、真田父子は、信繁の兄・真田信之の懸命な助命嘆願により一命を救われ、和歌山県高野山麓の九度山に蟄居を命じられた。
信繁はここに妻子を呼び寄せ、家臣も合わせると16名ほどが暮らしたとされる。信之は援助を欠かさなかったが、その暮らしは苦しく、昌幸は慶長16年(1611)、失意のうちに没した。
秀頼の要望に応えての大坂入城
1603(慶長8)年、万全な体制を確立した徳川家康は江戸幕府を開いた。ここにおいて豊臣秀頼は、摂津・河内・和泉の直轄地のみを納める65万石の一大名となり、実質的には天下人の座から外れた。
しかし、こうした状況の中でも秀頼は、武家摂家の後継者として朝廷内に大きな影響力を維持していた。家康は幕府政権安定のために、そんな秀頼の存在を危惧した。そして、家康は方広寺鐘銘事件などで、豊臣氏を圧迫し続けたのである。
家康の嫌がらせとも思える行動に対し、1614(慶長19)年、ついに徳川幕府との戦いに意を決した秀頼と豊臣家臣団は、豊臣恩顧の諸大名に援軍を要請した。しかし、頼りにした福島正則・加藤嘉明らは、ついに大坂方に味方することはなかった。信繁に大坂城への入城要請があったのはこの時と考えられる。
秀頼は、信繁に5,000人の兵の大将とすること、さらに勝利の暁には50万石を与えることを約束したとされる。それは、二度までも徳川の大軍を打ち破った信繁への期待感そのものであったろう。
信繁は、和歌山藩主・浅野氏の厳しい監視の目を掻い潜り、大坂城への入城を果たした。この知らせを受けた家康は、助命を反故にした信繁に対し、掴んだ戸板をガタガタと鳴らすほど怒りを露わにしたという。
激論の末、籠城策に決定
信繁が大坂城に入ると、そこには長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登・後藤基次をはじめとする、関ケ原の戦いで改易された元大名や浪人たちなど、数万におよぶ武士たちが入城していた。
もちろん、この戦いを契機にして大名に返り咲いたり、浪人を脱し仕官を謀ったりと、それぞれが野望を抱いてはいただろう。しかし、多くの者たちは、将来を絶望に追い込んだ徳川打倒のために命を懸けて参戦した武士たちだった。
こうして、信繁入城後まもなくの1614(慶長19)年11月19日に、大坂冬の陣が勃発する。信繁ら豊臣方10万は、20万の幕府軍と戦端を開いたのだ。
緒戦の軍議において信繁は、盛親・勝永・基次らとともに、宇治・瀬田出撃案を進言。大和口・大津・茨木に防御陣地を構築し、幕府軍に長期滞陣を強いさせ、その間に豊臣恩顧の大名たちの寝返りを誘うという作戦を主張した。
しかし、戦意盛んな浪人衆と、慎重論の淀殿に忖度する大野治長ら豊臣家臣団はことあるごとに対立、京都出撃案は却下された。
だが、信繁らは諦めなかった。先手を打って、将軍徳川秀忠が着陣したところを奇襲しようとの策を再度進言した。しかしこの策も退けられ、結局、治長の大坂城籠城策に軍議は決した。
豊臣軍は、大坂城の周りに砦を配し防御態勢を固めた。しかし、10日ほどで木津川口・鴫野・今福・労淵、野田・福島などの砦が陥落。12月初めには、20万の幕府軍は完全に大坂城を包囲した。
真田丸での攻防で幕府軍を撃破
その一方で、信繁の動きは速かった。大坂城唯一の弱点とされた三の丸南側に出城・真田丸の構築を開始したのだ。
秀吉が築いた大坂城は、高低差のある地形と、三方を天然の河川に囲まれ、容易に敵の侵入を許さない構えになっていたが、南側だけは空堀のみで防御していた。
いざ合戦になると、幕府軍はこの方面から重点的に攻めて来るのは必至で、信繁は大坂城南側の東隅に出丸を築城。手兵5,000人で籠り、攻め寄せる幕府軍に対して横矢をかける体制を敷いて待ち受けたのである。
戦端が開かれると、信繁の読み通り幕府軍は大坂城南側に殺到した。
そして真田丸には、加賀の前田勢・越前の松平勢が突撃したが、一斉射撃を浴び、空堀の中で重なり合って戦死するという惨状をきたした。
冬の陣における幕府軍の戦死者の5分の4が、ここで戦死したというほどの損害を出してしまったのだ。
こうした中、休戦に向けての動きが起こり、淀殿の江戸下向の不問、大坂方の将兵の赦免の代わりに、城の総構えと三の丸の破却などを条件に、12月8日に和議が結ばれた。
この間に家康は、信繁の叔父である旗本の真田信尹を通じて信繁への調略を行ったことが記録に残っている。
大坂冬の陣において、真田丸の信繁の働きがいかに大きかったかを物語る史実でもある。
現在も残る真田丸の面影
信繁が築いた真田丸は大坂冬の陣の後に、真っ先に破壊されその遺構は真田山という地名でしか残っていない。
真田丸の範囲は、三光神社から心眼寺を含めたあたりとされる。三光神社には幸村像が立ち、大坂城とを結ぶとの伝説をもつ真田の抜け穴が残されている。
心眼寺はその地形から、真田丸の中心部と考えられる。その故地に、1622(元和8)年、白牟和尚が信繁・大助父子の冥福を祈り堂宇を建立した。境内には幸村鎧掛けの松があったが、大阪大空襲で焼失した。
心眼寺と明星学園の間に心眼寺坂と呼ばれる道路が通る。心眼寺坂は本郭が置かれた心眼寺と、真田丸の西端の曲輪があった明星学園を分ける堀切とみることもできる。
次回は、第6回として信繁がその武名を天下に轟かせた大坂夏の陣編を紹介しよう。
※参考文献
高野晃彰編・真田六文銭巡礼の会著『真田幸村歴史トラベル 英傑三代ゆかりの地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ、2015年12月
高野晃彰編・大阪歴史文化研究会著『大坂ぶらり古地図歩き 歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ、2018年12月
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