成人の概念
「成人の概念」は時代と共に変わりつつある。日本でも、成人の概念が見直されている。
インターネットの普及により簡単に悪影響な情報が手に入ったり、コミュニケーションの範囲が大幅に広がったことなどから、犯罪者の低年齢化が著しい。
さらには、厳しい罪に問われないということから、未成年者が罪を犯すケースは増える一方だ。
成人の基準を下げないことには、社会がさらに乱れることになりかねない事態にまで至っている。
今回は古代中国における「成人」の概念について調べてみた。秦朝の時代の「成人の概念」は大変興味深いのでご紹介したい。
年齢ではなく身長!?
秦朝の時代、すでに戸籍制度が確立されていた。とはいえ、戦乱の時代である。「一人一人の出生情報を正確に管理するのは難しく、本人や家族が言う年齢に基づいて物事を行うのは難しい」と判断した結果であったという。
そこで、身長によって成人かどうかが判断されたのである。
男性は六尺五寸(150.2センチ)、女性は六尺二寸(143.2センチ)に達すると、成人とみなされた。
身長によって成人と判断されるということには、法律的な面でも影響が出てくる。
六尺に満たない者が罪を犯した場合は、刑事責任に問われなかった。
成人の身長に達した者が罪を犯した場合にのみ、刑事責任が問われ、その罪の重さによって刑罰が加えられた。
ある興味深い記述が残っている。
一人の農民が他人の馬を盗んだ。当時、秦朝は個人の所有物についての権利を重んじていたため、盗みは比較的重い罪とされていた。だが、現行犯でなかったため、慎重な調査がなされる必要があった。そして一年の月日が流れ、その農民は盗みを働いたと認定された。
興味深いのは、その農民は盗んだ時点では六尺五寸に満たなかった。ところが、一年が経ち罪と認められた時、すでに六尺五寸の身長に達していたのである。
現行犯で逮捕されたなら罪に問われなかったのだ。
運の悪いことに、審議が長引いたために罪に問われ、四年の強制労働に処された。
秦人は低身長だったのか?
それにしても、150センチほどあれば成人とみなされるのであれば、秦人は平均身長が低かったのであろうか?
秦が残した世界遺産の兵馬俑(へいばよう)を見てみよう。
兵馬俑の平均的な身長は185センチほどで、最も高い者は2メートルほどある。
そのことから「秦人は平均的に大柄であった」という憶測がなされている。
しかし後になって、考古学者が墓から出土した秦人の人骨を調査したところ、「およそ160センチほどが平均であろう」という結論に達した。
春秋戦国時代(紀元前770年ー紀元前221年)の墓から発掘された人骨は、170センチ前後だったという。
墓が残っているほどの位の高い人物の人骨であるとすると、生活水準が高く、食べ物は栄養豊富であったことがわかる。
そうなると、一般人よりは身長が高かったことが推測できる。
当時は位の高い人物とともに、奴隷や捕虜などが生きたまま共に埋葬された。彼らの遺骨を調査すると、平均160センチであったことが分かった。
兵馬俑の身長が高く、体つきもとても逞しかったのには訳がある。
秦の兵士になるには、とても厳しい条件があった。
武器を作る技術がそこまで発展していなかった時代、兵士の一人一人の武力はとても重要だった。背が低く、ひ弱な人物は戦場で役に立つ時代ではなかったのである。
つまり、兵馬俑の兵士たちは選りすぐりの精鋭だったのだ。
さらに言うならば、兵馬俑は始皇帝の墓を守る軍隊として作られた。見た目的にも最強の軍隊を作る必要があったのである。
そしてもう一つ面白い資料があった。なんと兵馬俑は「厚底靴」を履いていたのである。
2号坑から発掘された弓の射撃手たちは厚底の靴を履いており、その靴によって10センチほど身長が上乗せされているという。まるで女性のハイヒールの様である。
兵馬俑は傑出した兵士の集まりを表現した物であって、実際に秦の時代の人たちが平均して高身長だったわけではなかったのである。
参考 : 秦朝为何根据身高来判断是否成年
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