上杉謙信の出家願望
「越後の龍」こと上杉謙信は、弘治2年(1556年)27歳の時に越後を出奔して高野山に向い出家しようとした。しかし、謙信の後を追ってすがりつく家臣たちを放置できずに、出家を諦めて越後に戻った。
果たして本当に謙信は出家を望んでいたのだろうか?
今回は、上杉謙信がなぜ出奔したのか?そして出家願望は本心だったのか?掘り下げていきたい。
幼少時と人生の師
上杉謙信は享禄3年(1530年)越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景の四男として生まれた。
父の上司である越後守護の上杉氏は基本京都にいたために、実質的に越後の実権を握っていたのが、守護代の父・為景であった。
下剋上を実際に起こしたのも父・為景である。
為景は謙信が生まれる前に守護である上杉房能を滅ぼして傀儡守護を立てて、実質的な越後国主となっている。
父は長兄の晴景を嫡男と定めており、謙信との年の差は18歳であった。
無用な家督争いを避けるために、父は謙信(当時は虎千代)が幼少期に、城下の臨済宗・林泉寺に預けて出家させた。
この林泉寺で謙信は、人生の師となる住職の天室光育(てんしつこういく)と出会っている。
謙信は、林泉寺で7年間も薫陶を受けたとされている。
だが、謙信は僧侶になるのを嫌がって、一度春日山城に帰されたことがあったという。
しかし、また出家させられて、今度は心を入れ替えて真面目に修行した。
本来ならばそのまま住職となっていた謙信だったが、戦国乱世は謙信の人生を大きく変えることになる。
環俗
父・為景は、兄の晴景に家督を譲った数年後に死去したが、兄・晴景は残念ながら父のような強い武将ではなく、しかも病弱であった。
越後では内乱が勃発し、長尾家とその味方についた武将たちは、病弱であった晴景に代わる弟たちの出陣を熱望した。
そこで晴景は、子どもの時に武勇に優れていた謙信を環俗させたのである。
当時14歳か15歳であった謙信は破竹の勢いで敵を倒し、その名を広めることになった。
すると家臣たちの間で、当主を謙信にすげ替えようとする動きが起こった。
兄弟間の骨肉の争いになると思われたが、これは守護である上杉定実の仲介によって回避することができた。
結果的に謙信が兄・晴景の養子として、守護代・長尾家の家督を相続することになった。
春日山城主となってからは、一族を率いて戦いに明け暮れる日々が続いた。
天文19年(1550年)上杉定実が後継者を遺さずに死去したために、謙信は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められた。
天文22年(1553年)謙信は上洛した際に高野山に詣で、京に戻って臨済宗大徳寺91世の徹岫宗九のもとに参禅して受戒し、「宗心」という戒名を授けられたという。
出家と隠居を宣言し、出奔
そんな中、弘治2年(1556年)3月、謙信は家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停などで心身が疲れ果てたのか、突然「出家・隠居する」ことを宣言した。
そして6月に師・天室光育に遺書(手紙)を託し、出奔して高野山に向かったのである。
天室光育への手紙には、今までの戦の武功が書き連ねられており、自慢的な内容であった。
「師に褒めてもらいたいこともあり、段々と名声を得たからそれを汚したくはない」
「功を成して名を挙げたから、身を退いて遠国へ行って心の中を定めたい」
つまり、国主を退任して出家したいと書いてあったのだ。
しかし、その間に越後では武田信玄に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻していた。
当然、家中は大慌てとなり、天室光育と長尾政景らの説得もあり、謙信は出家を断念して越後に帰国し、大熊朝秀を討ち取ったのである。
出家は本心だったのか?
実は謙信は、この出家騒動で得たものがある。
それは家臣たちの「誓詞(せいし ※誓いの言葉)と人質」である。
簡単に言うと「越後に戻る代わりに、お前たち俺を絶対裏切るなよ」という家臣たちからの確約を取ったのである。
こうなると疑問が湧き上がる。
謙信の出家騒動は、家臣たちの誓詞と人質を確保するために行った「自作自演」だったのではないかということだ。
謙信は、家臣たちが呼び戻しに来ることも予想していたであろう。そしてもし、反旗を翻したり家臣内で争いが起こった際には「いつでも出家するぞ」と釘を刺しておきたかったのかもしれない。
四男の謙信が越後の国主となり、戦ばかりの日々を送ることは、幼少期に僧になるはずだった身からすれば考えられなかったはずである。
この出家騒動はもしかしたら、これからの自分の進む道を神に問うたのかもしれない。
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