ブギウギ

『ブギウギ』羽鳥善一(演・草彅剛)のモデル・服部良一とは? 「天才作曲家の代表曲」

NHK「ブギウギ」のヒロイン鈴子のモデル・笠置シヅ子の才能を開花させた服部良一

草彅剛さん演じる羽鳥善一のモデルで、昭和歌謡史を代表する作曲家です。

シヅ子を「ブギの女王」へと導いた最大の功労者・服部良一はどんな人だったのでしょうか?
生い立ちから代表曲まで、足跡をたどります。

羽鳥善一の役どころとは?服部良一と笠置シヅ子の関係

画像.服部良一 public domain

『ブギウギ』公式サイトによると、羽鳥善一は上京した鈴子を一流の歌手へと成長させるという役どころです。

史実でも、服部良一との出会いによって笠置シヅ子の才能は開花し、シヅ子は少女歌劇の看板スターから「スイングの女王」を経て「ブギの女王」へと大スターへの階段を駆けあがっていきます。

※詳しくはこちら。

「ブギウギ」才能と売りに悩む鈴子。鈴子のモデル・笠置シヅ子の才能を覚醒させた出会いとは?
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/boogiewoogie/74694/

1938(昭和13)年、帝国劇場での出会いが服部とシヅ子の名コンビを生み、その師弟関係は生涯にわたって続くことになります。

代表曲『東京ブギウギ』も含め、笠置シヅ子が残した楽曲は60曲あまり。
ほとんどを服部が作曲し、そのうちの22曲はブギでした。

服部は「村雨まさを」の名で作詞も手がけ、シヅ子の声質やキャラクターを生かした曲を次々と生み出していきました。

服部にとって、シヅ子は自分の音楽を体現してくれる得がたい存在だったのです。

あるとき「笠置シヅ子は服部良一の愛人だ」というゴシップが出回りましたが、シヅ子は自分たちの関係はあくまで “師弟関係” だと記事を一蹴しています。

シヅ子にとって服部は「人形遣いと人形のように切っても切れない関係」であり、服部にとってシヅ子は「かわいい弟子」でした。

ちなみにシヅ子の男性の好みは “育ちがいい美男子”。

服部の女性の好みは、息子の克久さんいわく
ものすごい美人。小暮美千代さんや山田五十鈴さんみたいな妖艶な人
だったそうです。

また空襲で家を失ったシヅ子は、一時、服部家に居候していたことがあります。
シヅ子の帰りが夜遅くなると「夜道は物騒だから」と服部は駅まで迎えに行きました。

服部はシヅ子より7歳年上。彼にとってシヅ子は、放っておけない可愛い妹のような存在だったのかもしれません。

余談ですが、当時10歳だった服部克久さんのシヅ子の印象は、「よくしゃべる親戚のうるさいおばちゃん」だったそうです。

作曲家・服部良一の代表曲

服部良一はジャズのフィーリングを生かし、数々のヒット曲を生み出しました。

・別れのブルース

『ブギウギ』羽鳥善一(演・草彅剛)のモデル・服部良一とは?

画像.淡谷のり子 public domain

1937年、淡谷のり子が歌った『別れのブルース』が大ヒット。「窓を開ければ」で始まる『別れのブルース』は、横浜本牧のチャブ屋(外国の船乗りなどを相手にした売春宿)をモチーフに作詞されました。
黒人ブルースを元に作られたこの曲は、和製ブルース第一号と言われています。

その後服部は『雨のブルース』『思い出のブルース』とブルースを続けざまに作曲。
淡谷のり子は「ブルースの女王」とよばれるようになりました。

・蘇州夜曲

『ブギウギ』羽鳥善一(演・草彅剛)のモデル・服部良一とは?

画像.李香蘭(山口淑子)public domain

服部が自分の作品の中で、一番印象深いと語ったのが『蘇州夜曲』です。

戦時中、皇軍慰問団の一員として訪れた中国の風景に触発され作曲したというこの曲は、満洲映画協会(満映)の看板スター・李香蘭が歌うという前提で作られました。

美人が大好きな服部はレコーディングを楽しみにしていましたが、スタジオに現れたのは渡辺はま子で、ちょっとがっかりしたというエピソードがあります。

『蘇州夜曲』のレコードは渡辺はま子・霧島昇が吹き込み、李香蘭バージョンは、1940年に公開された映画『支那の夜』(長谷川一夫・李香蘭主演)の劇中歌として発表されています。

・戦後のブギブーム

『ブギウギ』羽鳥善一(演・草彅剛)のモデル・服部良一とは?

画像.笠置シヅ子 public domain

戦時中に適性音楽として憂き目を見たジャズは、戦後一気に花開き、笠置シヅ子の『東京ブギウギ』は、空前のブギブームを引き起こします。

服部・笠置コンビは『ホームラン・ブギ』『ジャングル・ブギ』『買い物ブギ』とブギを連発し、快進撃を続けました。

ブギウギブームは短命に終わりますが、その後も服部は『青い山脈』『銀座カンカン娘』『夜のプラットホーム』など数々のヒット曲を作り、日本を代表する作曲家となりました。

羽鳥善一のモデル・服部良一の生い立ち

画像.服部良一(1950年頃)public domain

服部良一は、1907(明治40)年大阪で生まれました。

下町の長屋育ちで、父親は土人形師。生活は決して豊かではありませんでしたが、家には蓄音機があり、芸事好きの両親の影響で江州音頭や河内音頭を歌っていたといいます。

服部は幼いころから新聞配達をして家計を助け、小学校卒業後は、昼は仕事をして夜は商業学校に通っていました。

服部良一と音楽の出会い

画像. 昭和4年頃の道頓堀中座前。出典:道頓堀写真館

1923(大正12)年、姉の勧めで道頓堀のうなぎ屋が結成した「出雲屋少年音楽隊」に一番の成績で合格。サクソフォン奏者となります。

3年後の1926(大正15)年には、大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。
亡命ウクライナ人指揮者エマヌエル・メッテルに見出され、4年にわたって和声学、管弦楽法、指揮法を学びました。

この頃、関東大震災の影響で東京から大阪に多くのジャズマンが流れ、道頓堀周辺の歓楽街にはジャズが満ちあふれていました。

服部はオーケストラとジャズバンドを掛け持ちしながら、ジャズの腕を磨いていきます。

1933(昭和8)年、26歳で上京。和製ジャズとよばれた服部メロディーは、戦前、戦後にわたって人々を魅了し、特に敗戦によって生きる目的を失った人々に、希望や潤いを与えたといいます。

ヒットメーカーの名声を獲得した服部良一は、1993(平成 5年)年、帰らぬ人となりました。85歳でした。

服部良一が生涯にわたって作った曲はおよそ3千曲。服部メロディーは、今でも多くの人々に歌い継がれています。

参考文献:上田賢一『上海ブギウギ1945』.音楽之友社

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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