前回の記事「【カール大帝と西ヨーロッパの成立】 権威と権力の違いとは?」では、フランク王国による西ヨーロッパの統一過程を見てきました。
西ローマ帝国の崩壊後、ローマ教会は軍事的な支援者を失いましたが、一定の勢力を維持していました。
一方のゲルマン民族は軍事力(権力)を持っていましたが、統治に必要な「権威」が不足していたため、彼らはローマ教会と提携。またローマ教会も軍事的な保護者を得ることができました。
こうした両者による利害の一致から、ローマ教会とフランク王国は密接な関係を築いていきます。フランク王国はローマ教会の協力を得ることで、勢力を拡大していきます。
800年にカール大帝のローマ教皇による戴冠が行われ、西ヨーロッパの統一が実現しました。
この出来事は西ローマ帝国の復活を象徴するものであり、また異教のイスラム勢力に対抗するための西ヨーロッパ内における団結を生み出しました。
「権力」と「権威」の融合がヨーロッパ誕生の原動力となったのです。
カールの死と神聖ローマ帝国の誕生
800年、カール大帝はローマ皇帝として教皇から冠を授けられました。彼はフランク王国を拡大し、ヨーロッパの大部分を支配します。
しかし彼の死後、フランク王国は彼の孫たちによって3つに分割されました。
東フランク王国、イタリア王国、西フランク王国であり、現在のドイツ、イタリア、フランスの原型です。
一方のローマ=カトリック教会はフランク王国の庇護を失い、再び保護者を失ってしまいます。どの国に対してローマ皇帝の冠を与えて、軍事的保護を受けるべきか、ローマ教皇は迷うことになったのです。
3つに分裂したフランク王国のうち東フランク王国では、ザクセン家のオットー1世が台頭。彼はマジャール人やスラヴ人などの侵略者を撃退し、ドイツ地方を統一します。ローマ教会は新たな保護者として、オットー1世に目をつけました。
教会は東フランク王国を西ローマ帝国の後継として認めたのです。そして962年、オットー1世にローマ皇帝の冠が授けられました。
これが「神聖ローマ帝国」の始まりです。オットー1世はドイツ語で皇帝を意味する「カイザー」と呼ばれました。
神聖ローマ帝国は、教会の権威と皇帝の権力が相互補完することで成立した国家です。
神聖ローマ帝国の名前はその性格をはっきりと表現しています。
教会から来る権威を「神聖」とし、皇帝から来る権力として「ローマ帝国」を象徴しているからです。
叙任権闘争の開始と修道院運動
教皇と皇帝が協力して成立した神聖ローマ帝国でしたが、やがて両者は喧嘩を始めます。
問題の火種は教会の聖職者を任命する権利(叙任権)であり、教会(権威)と皇帝(権力)のバランスを左右する重要な問題でした。
教皇は自分が叙任権を持つべきだと主張し、皇帝に挑戦しました。皇帝は教皇に従わず、叙任権を保持としました。
叙任権闘争の始まりです。
教会の高位聖職者を任命する権利が叙任権であり、元々は教会に影響力を持つ皇帝が持っていました。皇帝は自分の身内や部下を教会の重要なポストに就け、教会の勢力を抑制することが目的です。
しかし、この状況を変えたのが修道院運動になります。
修道院は静寂を求めて山間部につくられることが多かったため、食料の確保が困難でした。修道士たちは農業を自ら行うようになり、高い知識を持つ修道士はその農業技術の改良と記録を重ねていきます。
修道院は皇帝から少しずつ経済的に自立するように、叙任権を奪回していったのです。
修道院で行われた農業研究の成果は、カトリック教会という強固なネットワークを通じて、各地の教会に共有されていきました。農村部での農業指導は農民たちの支持を集め、修道院の発言力は高まっていきます。
カノッサの屈辱
一方で世俗化によって腐敗していたローマ教会では、この修道院運動の影響を受けて改革運動が本格化します。
そして修道院出身の教皇グレゴリウス7世が、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に対して、聖職叙任権を教会側に戻すよう要求したのです。
この要求によって教皇権は大きく上昇し、叙任権をめぐる両者の闘争が本格的に始まります。
叙任権をめぐって対立した皇帝ハインリヒ4世に対して、教皇グレゴリウス7世は「破門」という極刑を下します。破門とはキリスト教共同体からの追放処分で、当時の社会では事実上の社会的抹殺を意味しました。
破門されたハインリヒ4世は、他の貴族から皇帝位を奪われかねない事態に陥ります。皇帝を任命する権利はあくまで教皇にあるからです。
ハインリヒ4世はカノッサ城まで教皇を追いかけ、雪の中で屈辱的な謝罪を余儀なくされます。
これが有名な「カノッサの屈辱」であり「破門」という武器を持った、教皇権の強大さを明確に示す出来事だったと言えるでしょう。
教皇による十字軍の提唱
叙任権を巡る教皇と皇帝の闘争は収束せず、1095年には教皇ウルバヌス2世によってクレルモン公会議が開催されました。
公会議で教皇は、聖地を回復するための十字軍を提唱します。教皇の呼びかけに応じて、翌1096年に第1回十字軍が派遣されることになります。
十字軍へ参加するための呼びかけは、教皇の支援者を大幅に増やす効果がありました。十字軍の参加者には罪の赦しが約束され、天国への門戸が開かれるとされたため、多くの人々がこの宗教的な約束に惹かれたからです
教皇による十字軍構想は、教皇権の更なる拡大に大きく寄与する結果になったといえます。
参考文献:ゆげ塾、ゆげひろのぶ、川本杏奈、野村岳司(2023) 『ゆげ塾のヨーロッパがわかる世界史・上巻』ゆげ塾出版
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