戦国時代には猛将と呼ばれる武将たちがいました。
本多忠勝、山県昌景、可児才蔵、真柄直隆、島津義弘、伊達成実など、挙げれば枚挙にいとまがありません。
しかし猛将たちの逸話の多くは槍や剣、軍による突撃などによるもので、弓矢にまつわる逸話は多くありません。
これは、戦国時代には火縄銃が登場していたことも一因と考えられます。
歴史上、弓矢の名手として知られる人物といえば、平安時代の源為朝や那須与一、中国では呂布や黄忠、夏侯淵、岳飛などが有名です。
戦国時代にも、弓矢にまつわる逸話を持つ武将はいたのでしょうか?
今回は戦国時代の「弓の名手」の逸話をご紹介いたします。
日置流弓術免許皆伝 『立花宗茂』
「西国無双」、「西国一の弓取」として知られる渾名を持つ立花宗茂は、弓に秀でた武士として逸話が数多く残っています。
以下は、立花宗茂の弓矢に関するエピソードをまとめたものです。
立花宗茂の弓にまつわる逸話
・日置弾正政次によって考案された弓術・日置流(へきりゅう)の免許皆伝を受けている。
・初陣で、有力武将を馬上から射貫くことに成功。
・朝鮮出兵における戦いの一つである「碧蹄館の戦い」において、黒田長政と鉄砲と弓矢どちらが優れているのか論争となり、髪を整える道具である「笄」を弓矢で撃ち抜く。
・浅野長政と鷹狩りに出かけたが、鷹の調子が悪く全く獲物が捕れなかったため、宗茂は25mほど先にいた鴨を一発で射抜いた。さらにホオジロを見つけたが、浅野長政は「万一、外すことがあれば名折れなるから止めておけ」と制止しようとした。しかし宗茂は、ホオジロ飛び立った瞬間に左翼を射貫いて仕留めた。
・多くの武将の前で驚異的な射芸を見せていたことから「飛将軍」と呼ばれた。
93歳現役 『大島光義』
大島光義(おおしま みつよし)は美濃国関大島出身の大名で、大島雲八の名で知られています。
生誕は1508年であり、1604年に97歳でこの世を去りました。この驚異的な長寿は戦国時代においては非常に珍しいものであり、その武勇と弓の腕前で知られる人物でした。
大島雲八の弓にまつわる逸話
・弓の命中精度がすさまじく、鉄砲を持った相手も射殺。
・木の陰に隠れた兵を、木ごと貫いて射殺。
・1564年、50代後半という年齢で、織田信長に召しだされて弓大将になる。
・弓の腕で姉川の戦いや坂本の戦いで武功を立て、信長にさらに気に入られ「白雲をうがつような働き」と評される。それを受けて通称を「大島雲八」と改める。
・安土城建築の際に弓の腕を買われて、弓矢を打ち出す穴の矢窓建築を命じられ、建築奉行となる。
・羽柴秀吉に召し出されて弓足軽大将になり、6,000石を領知される。
・80代になってもまだまだ現役で、1592年の朝鮮出兵でも弓手200人を率いて在陣。
・豊臣秀次の命で、京都・法観寺の八坂の塔の5階の窓に矢を10本射込んでみせる。このとき84歳。
・1600年、93歳で関ヶ原の戦いに東軍側で参戦し武功を挙げ、息子たちが西軍に参加するも家康に許され、さらに加増されて1万8,000石となる。
・1604年に97歳で亡くなる。生涯53度の合戦に挑み、41通の感状を得た名将だった。
北条家臣 『鈴木大学』
鈴井大学は通称で、本名は鈴木成脩(すずき なりまさ)。
鈴井大学は後北条家の家臣でしたが、史料が少なく生年は不明で、没年は小田原合戦の1590年とされています。
馬廻衆弓大将で剛弓の名手として知られていました。
鈴井大学の矢にまつわる逸話
・弓矢の達人として広く知れ渡り、自分が使う矢には必ず名前を入れていた。
・武田家との戦の最中に、突撃してきた武田軍の行動に慌てて名前が入っていない矢を撃ってしまう。見事に命中させたが、戦後、武田方の使者が訪れて「鈴木大学に受けた矢傷なのに名無しの矢とは無念」と抗議される。
・抗議を受けた鈴木大学は「お詫びに名前入りの矢をやろう」と、武田方の使者に矢を渡した。つまり、鈴木大学に射貫かれること自体が誉れとされるほどの達人だった。
・天正18年(1590年)の小田原合戦では、後北条氏の弓大将として奮戦するも討死した。しかし数多くの敵兵を正確に射貫き、無駄になった矢はなかったという。
・その名は徳川家康にも知られ、小田原合戦後に徳川家臣が小田原城で鈴木大学の弓を見つけた際に、見に行ったという。
最後に
今回は戦国時代で弓矢にまつわる逸話がある武将たちを紹介しました。
立花宗茂は有名な武将ですが、大島光義や鈴木大学はあまり知られていない武将です。
この記事を機に知っていただければ幸いです。
参考 :『寛永諸家系図伝』『新編相模風土記』
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